主日の福音05/09/25
主日(マタイ21:28-32)
義の道を示されるイエスに信頼を寄せる

今日の朗読で、兄の取った態度を理解し、生活の中で見習うために三つの言葉を押さえておくと良いと思います。具体的には「父」「義の道」「後で考え直す」この三つです。その前にまずは、前置きとなる点を一つ片付けておきましょう。それは、イエスがこのたとえを投げかけている「祭司長や長老たち」のことについてです。

イエスが「あなたたちはどう思うか」と問いかけているのは「祭司長と民の長老たち」です。彼らは自分たちが旧約聖書の律法を完全に守っている優れた人間と思い上がっています。律法を完全に守り、掟を守ることのできていない人たちとは決して交わらず、自分たちの清さを誇っていました。掟を完全には守れていない人をさげすむ態度が一方にはあるのに、自分たちは神に喜ばれていると思い込んでいたのです。

イエスは祭司長と長老たちに二人の息子のたとえを話し、「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」と迫りました。「兄の方です」。答えは間違っていませんでしたが、それは、見せかけの正しさ、うわべだけの義をひけらかす宗教指導者に、自分たちの過ちを認めさせるようなものでした。たとえ話の弟と同じく、自分たちは見せかけの良い返事をしているだけで、父親の望みを果たしてはいませんと、自ら証明しているようなものです。

そこで、兄の取った態度をよく理解するために、先の三つの点について考えを進めていきましょう。まずは「父」という言葉です。そのままズバリ、「父親」という意味もありますが、同時に「権威」の象徴でもあります。「父親」に「いやです」と言えば権威を否定することにつながり、「お父さん、承知しました」と言えば、権威に素直に従うという意味です。実際には、兄は後で考え直して権威に忠実な態度を取りましたが、弟の素直さはうわべだけでした。

また、「父」は「父なる神」でもあります。「どちらが父親の望みどおりにしたか」とは、「どちらが父なる神の望みを果たしたか」ということです。父なる神の望みを果たしたのは、ここでは「弟」ではなく「兄」の方でした。これで、たとえ話に出てくる「父」が、実際には何を意味しているかが見えてきたと思います。イエスは、祭司長や民の長老たちに、うわべだけ装っても中身がなければ意味がないのだと、はっきり言っているのです。

そこで二つめの言葉が出てきます。父親の望みを果たす生き方、それが「義の道」です。洗礼者ヨハネはこの「義の道」を説き続けたのですが、受け入れたのは自ら正しい人間と主張していた祭司長や民の長老たちではなく、彼らから罪人扱いされていた徴税人や娼婦たちこそが、「義の道」を受け入れたのでした。

つまり父なる神が望む「義の道」とは、掟を完全に守っていると自慢することではなく、掟に触れている弱い人間であることをわきまえて救い主の憐れみにより頼む生き方、これこそが父なる神の望む「義の道」だったのです。洗礼者ヨハネはこの「義の道」を示し、イエスが完成なさいました。

ここまで、「父」「義の道」を考えてきましたが、人間はいつもいつも「父」の望みに従って「義の道」を忠実に歩み続けるわけではありません。いったんは「いやです」と答える場合もあります。それでも「後で考え直す」ことで、父なる神が望まれる生き方に立ち返ることができます。つまり「後で考え直す」ことがいかに大切か、ということです。

祭司長たちと民の長老たちは、イエスのたとえを聞いたのちに「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問いかけられ、「兄の方です」と答えたのですが、厳密には兄も「望みどおり」とは言えないと思います。厳密に、「父親の望み通り」と言うのであれば、「お父さん、承知しました」と答えてすぐにぶどう園に出かけた場合ということになるでしょうが、兄はいったん「いやです」と断ったのでした。ここには人間の弱さ、もろさが描かれているのだと思います。

そうであれば、父なる神は人間の弱さ、もろさを十分知った上で、後で考え直す時間も折り込んでくださっているということではないでしょうか。人間誰しも、完全ではない。だから父なる神の望みにいったんは「いやです」という返事をしても、後で考え直して立ち返ってくれるなら、十分神の望みに答えることができるのです。祭司長や民の長老たちは、自分たちが徴税人や娼婦たちをさげすんでいたことを反省し、神の憐れみに触れることもできたはずなのです。後で考え直すなら、誰もが神に立ち返るチャンスが残されているのです。

ここまで三つの鍵となる言葉を吟味し、父なる神の望みに答える道を探ってきましたが、私たちに当てはめて何かを見習うためにはどうすればよいのでしょうか。私は、一人ひとり生活の中で立ち止まる時間を持ちなさいと勧めたいと思います。毎日忙しく働いている中で、いったん足を止めて、「自分は神の望みにかなうように歩いているだろうか」と後で考え直す時間を作って欲しいのです。

そう言いながら最近ますます忙しくなっている中田神父自身振り返って、皆さんの参考になる例をいくつか並べてみたいと思います。皆さんにも同じように当てはまるひとときの例として、伊王島のターミナルで船を待つ時間はいかがでしょうか。どんなにぎりぎりにターミナルに来る人でも、船の姿が見えて、船が桟橋に着くまでの時間は、仕事をしたりしないはずです。こんな短い時間でも良いから、私は神様の望みに答えようと生きているだろうか、船を待って立ち止まっている間に、自分に問いかけてみると良いと思います。

ただし、中田神父は正直に告白しておきたいと思います。恥ずかしながら先週の水曜日、今出て行こうとして桟橋を離れようとしている船をもう一度呼び止めて、はしごをかけさせて船に飛び乗りました。船の姿が見えて、桟橋に着く時間さえも立ち止まっておりませんでした。これではいったん立ち止まって自分の生き方を振り返り、神の望みに答えようとしているだろうかと、振り返る時間すらないことになってしまいます。いちおう弁解をさせてもらうならば、中田神父は船に乗っている二十分間は、つとめて自分自身を振り返る時間に充てているつもりです。

人間誰しも完全ではありません。だからこそ、後で考え直して良い方を選びましょう。そのためにも、立ち止まって振り返る時間をそれぞれ確保しましょう。日曜日、ミサに歩いてくる間の時間とか、少し早く来て祈りが始まるのを待っている時間とか、ミサが終わってから完全に静かになったその時間とか、どこかを捉えて後で考え直す時間に充てましょう。後で考え直す機会を多く持っている人の方が、より父なる神の望みどおりにこの人生を生きることができるはずです。
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(マタイ21:33-43)
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