主日の福音05/09/18
年間第25主日(マタイ20:1-16)
神はあなたをも雇ってくださる

できれば忙しくならないように、できれば目立つ場所に立たないように、日頃から用心しているつもりなのですが、なかなかうまくいきません。何が言いたいかといいますと、10月の中旬から純心大学で講義を1コマ持つ羽目になりました。

むこうの話では「いのちの教育の一環となるような授業を生徒にしてあげてください」ということなのですが、来年の新学期からと言うならまだしも、あと1ヶ月切ったこの時期に私に依頼が来るというのはどうも理解できません。

これと言って純心大学と縁があるわけでもありません。純心大学の卒業生でもありませんし、そもそも学校で授業をした経験もないのに、誰の紹介だったのかいまだに見当もつきません。もしかしたら、こちらにいらっしゃる純心聖母会のシスター方は純心大学ではちょっと名前の知れた方々で、シスターの一言でこの話がまとまったのでしょうか。

本当に、日頃私は大きな看板を立てて人目に付くようにするとか、そんなことをしたことがないのに、純心のシスター方に見つかってしまいました。あるいはシスター方からすれば、何か目に付きやすい場所に私がいたのかも知れません。私には皆目見当が付きませんが、やはり誰でも人材探しとなれば、目に付いた人からこの人はどうか、役に立つか適さないか、考えるわけですから、シスター方の見方では、目に付いたということなのでしょうか。

それにしても、秋の釣りの楽しみが遠のいてしまいそうです。夏はクラブ活動と称して頑張って釣りに出かけたわけですが、魚は夏の暑い盛りよりも、秋から冬にかけてが身もしまって大きくなるのではないでしょうか。そう考えると純心大学には何てことをしてくれたのだと言いたい気分です。頼んだ覚えもありませんが、その純心大学の担当の方が、日曜日の午後に、授業を引き受けていただくためにお伺いに来ると言っておりました。船が欠航することを望むばかりです。

さて今日の福音ですが、ぶどう園の主人が季節労働者をいろんな時間に雇い、雇った労働者に一律に賃金を与えるというたとえが紹介されました。「天の国は次のようにたとえられる」(20章1節)とありますから、たとえ話は天の国をよく理解する鍵が含まれています。あるいは、神はこのようなお方なのだという、父なる神のお姿を知る鍵が含まれていると考えても良いでしょう。

三年前の説教では、どんなに長く働いた人でも、たとえ夕方のわずかな時間しか働かなくても、一日を終えるために必要な報酬・報いを神は必ず与えてくださる。すべての人に平等に、平安のうちに一日を終えるだけのものを与えてくださるということに強調点を置いて話したのですが、今年は雇われる側の私たちの態度に力点を置いて考えてみたいと思います。

ぶどう園が収穫の時期を迎え、ぶどう園の主人は季節労働者を大量に雇う必要に迫られました。労働者を探しに行くと言っても、やみくもにウロウロすれば良いというわけではありません。町の大通りに行って、目に付いた人を片っ端から雇っていくのです。夜明け頃に雇っても、また朝の九時になれば雇われなかった労働者がわんさと集まっているはずです。

そうして大量に季節労働者を雇っている様子を思い描いているうちに、次のことに気が付きました。主人は夜が明けるとすぐに労働者を雇っています。ぶどう園の主人はあちこち出て回って労働者を探していたのではなく、町の大通り、大きな四つ角などに探しに行ったのではないでしょうか。十二時頃と三時頃にも出かけたというのは、同じ場所に、時間を変えて何度も何度も労働者を探しに行ったことを想像させます。

そうなると、雇われる側にとって雇ってもらうためのたった一つの方法は、ぶどう園の主人が人を探し求めに来る、町の大通りに立って待つことが非常に大事なことになってきます。ぶどう園の主人がさっそく目をつけて雇ってくれるために、雇われたいと思うなら主人がやってくる場所に立っておく必要があるのです。

夕方五時にも主人は人を雇いに行って、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と声をかけましたが、主人が言っている「ここ」は、誰もがお互いに知っているはずの場所でなければ、出会うはずもないのです。きっと、雇ってもらうために、立っておく場所があるのではないでしょうか。

そこでわが身をふり返ってみるわけですが、大学生の講義を受け持つ講師に欠員が出たとき、講師を探すために道をウロウロするのかと考えると、やはり雇う側にとって「ここ」という場所に立っている人を探すに違いありません。私自身は何が何だかさっぱり分かりませんが、講師を雇いたいと思っているところへ、おあつらえ向きの場所に立っていたのかも知れません。できるだけ海に逃げていたつもりでしたが、それでも何か目に付くものがあったのでしょう。

あー、そう言えば純心大学との接点が一つありました。純心大学で早くから講義を受け持っている神父様に私は何度かパソコンを教えに行った覚えがあります。この方からの口添えが、もしかしたらあったのかも知れません。ですがパソコンの指導と、大学の講義に、何の関係があるのでしょうか?とにかく、日曜日の面接官に、なぜ私でなければならないのか、聞いてみたいと思います。

話を元に戻しましょう。ぶどう園で働く季節労働者たちは、ぶどう園の主人にうまく雇ってもらうために、「ここ」という場所に立っておく必要があります。主人は喜んでぶどう園の労働者にしてくださいます。それはつまり、喜んで労働の機会を与え、大地の恵み、労働の実りを分け合う喜びに招いてくださるということです。これが、天の父のお姿なのだとしたら、私たちも考えるべき事があるのではないでしょうか。

つまりこういうことです。天の父は、私たちに人としての喜びを与えようといろんな人を招いておられるのです。働く喜び、苦労を共にして、一緒に収穫にあずかる喜びを多くの人に体験させようと、大通りで人を探しているのです。そうであれば、私たちもまた、天の父が雇ってくださる場所に、立っておく必要があるのではないでしょうか。父なる神が「あなたを使ってみたい、協力してくれないか」と声をかけてくださる、ちょうどそのような場所に、私たちは立っておく必要があると思うのです。

神が、何度も出向いて人を探しに来る場所とは、いったいどのような場所なのでしょうか。私は、まずはその場所は教会であると思います。ぶどう園の主人が労働者を雇いに行ったと思われる大通りや大きな四つ角、それは今の私たちにとっては父なる神とひんぱんに会うことのできる教会なのではないでしょうか。ここに集まり、ここで神の名を呼び求めるならば、私たちはいずれかの時に、神に呼ばれてそれぞれの務めを任されるのではないかと思います。

また、教会にたまにしか顔を出さない人もいるでしょう。実は神に声をかけてもらう機会を何度も失っていると思うのですが、それでもここに集まっていれば、何かお役に立てる務めを託されるかも知れません。神は恵みとして、私たちに働く喜びを、誰かのために自分を役立てる良い機会を、与えてくださるのです。

また、教会に来ることはできなくても、いつも心を教会に向けている人はたくさんいます。病気で寝ている人、病気とまではいかなくとも、教会に行けないことを心苦しく思い、祈りを通していつも教会とつながっている人は、十分に神様に雇ってもらえる人だと思います。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(7節参照)。人間の目では働く力がないように見えても、教会と絶えずつながっている人には、神と共に喜び合う恵みを必ずお与えくださるのです。

さて、問題は神が雇ってくださる場所に立っていない人々です。神は最後の最後まで、ご自分の喜びにあずかる機会を用意しておられるのですが、それでも神の招きに加わろうとしない人はどうなるのでしょうか。健康を損なっているわけでもないのに、教会の掟である少なくとも年に一度は、御復活祭の頃に聖体を受けるとか、少なくとも年に一度は必ず告白するといったことを逃げて回るなら、せっかく喜びにあずからせようとする神の思いを無駄にすることになります。

聖書の中では神との交わりから外れている状態は「外の暗闇」と表現されています。私たち一人ひとり、神から声をかけてもらえる場所にいつもとどまりたいものです。神の呼びかけを逃げ回り、外の暗闇に放り出されることのないように、喜びを準備して待っておられる神から離れない生活を、これから願い求めていくことにいたしましょう。神はあなたも、喜んでぶどう園の収穫に招いてくださるのですから。
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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マタイ21:28-32)
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