主日の福音05/09/11
年間第24主日(マタイ18:21-35)
いちばんすばらしい理解の仕方は神の思いに触れる
今日の福音朗読は、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」この言葉が全体を理解する鍵になっていると思います。私がしたように、同じように隣人に振る舞いなさいと、イエスは弟子たちに、また私たちすべてに呼びかけます。天の父の思いを知り、天の父の望みに沿うように隣人に接していくことが求められているのです。少しずつ解き明かしていくことにしましょう。
まず私たちが考えなければならないのは、天の父の思いをどうやって知ればよいのだろうかということになります。それは、こうすればよいという公式のようなものはないと思いますが、一つ考えられるのは、いちばんよい理解の仕方をすれば、天の父の望みに触れるのではないか、ということです。
具体的にペトロの例からからそのことを考えていきましょう。ペトロはイエスに、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と尋ねますが、イエスの答えは、「七の七十倍までも赦しなさい」というものでした。ここで言いたいのは、何回くらいでよろしいでしょうかと尋ねるペトロの考えをいくら延長しても答えにはたどり着けないということです。「赦す」ということについて、回数という限度をつけていてはいつまでたっても天の父の思いに触れることはできないのです。
むしろ、ペトロの考える向きと正反対の方向に赦しについてのいちばんよい答えがある。それがイエスの言おうとしている「七の七十倍」という考え方でした。回数に限度をつけない、赦しを乞う人がいれば、そのたびに私たちは赦す。こうして初めて、「赦し」についての正しい理解にたどり着き、神の思いに初めて触れることになるわけです。
たとえ、人間の思いとは正反対であっても、いちばんよい理解の仕方をしたとき、私たちは神の思いに触れることになります。私はここで、イエスの次のような勧めを思い出します。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:38-44)ここでイエスが仰ったことは、人間が考えそうな方向とは正反対の考え方に向かわせるものでした。しばしば、人間の考えそうな方向とは正反対の考え方に、一つの課題についてのいちばんよい理解の仕方があって、そこまでたどり着いたとき、人間は神の思いに初めて触れるのです。
悪人に手向かってはならないという決心は、普通に考えると私たちが考えそうな方向をどこまでたどっても出てこない考え方です。同じく敵を愛しなさいとか、自分を迫害する者のために祈りなさいといったことは、私たちが一般に向かう方向をどこまで行っても出てこないわけです。思い切って、正反対の方向に踏み出してみる。そのとき初めていちばんすばらしい理解の仕方にたどり着き、初めて神の思いに触れることになるのでしょう。
次に身近なところで天の父の望みを果たす機会があるのか考えてみましょう。最近久しぶりに大学受験のための参考書を手に取りました。とある出版社の英語の受験参考書を久しぶりに読み始めました。その中で次の短い物語は今週の福音朗読ともつながりますので、ちょっと紹介したいと思います。
その物語とは、数学者アイザック・ニュートンにまつわる話です。ニュートンと言えばリンゴはなぜ落ちるか、万有引力の法則を発見したことで有名ですが、このニュートンについての愛犬ダイヤモンドとのエピソードです。ニュートンが20年にわたって研究し、文章にまとめていた成果が、ある時愛犬ダイヤモンドが引き起こした小火(ぼや)によって完全に灰になってしまいました。
研究の成果を台無しにされてしまったのですから、ほかの人間であったらその犬に即刻死を言い渡していたことでしょう。ところがニュートンは愛犬ダイヤモンドを抱き寄せ、心は悲しみに沈んでいながらも、いつもと変わらない優しさで接し、「ああダイヤモンドよ。お前は自分でしでかした大変な悪さが分かっていないんだよな」と言ったのだそうです。
おそらく、私でしたらたとえ愛犬であってもその犬を生かしてはおかないだろうと思います。それほどのことをしたのですから、犬に八つ当たりをするのも無理はないと考えるに違いありません。ですが、犬を責めるという方向でどこまで考えても、犬を救い、自分自身を救ってあげることはできないのです。むしろ正反対の態度を取らない限り、また正反対の態度を取ったとき初めて、愛犬と自分自身を救うことになるのです。
このように、一つの課題についてのいちばんすばらしい考え方とは、ある時は人間が考えつきそうな方角とは正反対のときもある、ということです。そして、たとえ人間的には正反対と思える考え方であっても、それがいちばんすばらしい考え方であれば、結局は神の思いに触れることになるのです。
この考えを推し進めてみましょう。私たちは家族や身近な人を愛しています。「愛する」ということの、いちばんすばらしい理解の仕方、それは、最後まで、条件をつけずに愛し続けるということでしょう。もしもこんな条件のときは愛しません。人間であればこう言いたくなるときもありますが、「愛する」ということをいちばんすばらしい形で理解するのでなければ、神の思いに触れることはできない、神の愛に触れることはできないのです。
今日の朗読では、主君に途方もない負債を抱えた家来のたとえが引かれていますが、「憐れむ」というこの一つの課題をいちばんすばらしい形で理解しているのは、物語の中の主君です。しばらく猶予を与えれば、千分の一は取り戻せたかもしれません。いくらかでも取り戻してあとは憐れむというのでは、これはいちばんすばらしい理解の仕方とは言えないのです。
主君は憐れみをかけるのに時間を置きませんでした。即刻、無条件に憐れみをかけたのです。そしてそれこそが、「憐れみ」のいちばんすばらしい理解の仕方であり、神の思いに触れる道、神の憐れみに触れる道だったのです。にもかかわらず赦された家来は自分に借りのある仲間を憐れむことはしませんでした。「憐れみ」のいちばんすばらしい理解の仕方を示してもらっていたにもかかわらず、同じ方向で仲間に接してあげようとはしなかったのです。いちばんすばらしい理解の仕方を学びながら、それにならうことができなかったので、主君は反対に無限の刑罰を家来に科しました。
今週イエスは私たちに、神の思いを学びなさい、神の思いに触れなさいと呼びかけています。そのためには、一つひとつの課題をいちばんすばらしい形で理解するように心がけねばなりません。これがいちばんすばらしい理解の仕方ですと、そのような物差しがあるわけではありません。あなたなりに、これがいちばんすばらしい取り組み方だろうと思うところに従って日々直面する課題に取り組むことにいたしましょう。私が考えるにこれがいちばんすばらしい受け取り方です、そのような積み重ねが、きっとあなたを神の思いに触れさせてくださるに違いありません。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マタイ20:1-16)
‥‥‥†‥‥‥‥