主日の福音05/09/04
年間第23主日(マタイ18:15-20)
忠告をして滅びの子を作らない

今日の朗読の前半、「兄弟があなたに対して罪を犯したら」というイエスのさとしについて考えてみたいと思います。イエスはここで、罪を犯した兄弟を見放さないように繰り返し勧めています。あらゆる方法で兄弟に忠告するように促していますが、そこから、私たちに期待されていることを読み取ることにしましょう。

私たちに期待されていることを知るためには、イエスがこの話の中で「あなた」と呼びかけている相手に何を期待しているかを考える必要があります。イエスは「あなた」と呼びかけている相手に、罪を犯した兄弟に二人きりで忠告すること、ほかに一人か二人、一緒に連れて忠告すること、それでも聞き入れてくれなければ教会に申し出るように、この三つを促しています。

ここで教会に申し出ると書かれているのは、のちの時代に書き加えられたものでしょうが、いずれにしても、イエスはいくつかのことを一人の人に期待して、兄弟を忠告しなさいと仰っているのです。ここまでして、兄弟を見放さないように強く求めるのはなぜなのでしょうか。

二つ、考えてみたいと思います。一つは、まず私たちが、神から見捨てられることなく生かされているということです。罪に罪を重ね、そのことを忘れるためにお金やお酒や賭け事にのめり込み、自棄を起こしている人であっても、神はその人生の最後まで見放すことはしません。私がこのような状態でなくても、人間がここまで自分をダメにしても神が見放すことはないことを知ったとき、隣人が罪を犯すのを見て、見放してはいけないとイエスが仰るのも理解できるのではないでしょうか。

もう一つは、今日の朗読が置かれている場所に注目してみましょう。今日の朗読箇所の直前には、「迷い出た羊」のたとえがあり、その結びの中で「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と書かれています。この話のあとに、今日の朗読が置かれているのですから、「一人も滅びることを望まない神」「その思いを受け継ぐ御子キリスト」が人間同士最後まであきらめずに忠告するように促すのは、一人も滅びることを望んでないからです。

私一人を取り上げても、神は決して見放したりはしないお方です。また、この地上の人間すべてについても、誰一人滅びることを望んでおられません。私一人を考えるならば、決して見捨てないお方への恩返しとして、また人類全体を見るなら、神の思いをすべての人に届けるために、私たちは兄弟が罪を犯しても忠告を忘れず、決して見放してはいけないわけです。

そこで、私たちのこととしてもっと身近に、求められていることを考えることにいたしましょう。三つ考えてみました。一つは、私は過ちの中にいるその人の兄弟として面倒を見ようとしているか、ということです。ここで言う兄弟とは、血縁上の兄弟姉妹だけではなく、もっとも親しくしている間柄ということです。そういう人が一人や二人はいることでしょう。

もしも心配なことがあるときに、そんなことをしていてはいけないと、声をかけてあげる人であってほしいのです。「あいつとは関係ない」とか、「あっちから頼まれてもいないのに世話したくはない」という態度ではなく、過ちの中にある相手だからこそ、こちらから声をかけてあげてほしいのです。

また、自分一人では難しいと感じたとき、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と仰っています。私には、過ちの中にある人に声をかけるもう一人、あと二人の友達がいつもそばにいるでしょうか。私と付き合いのあるあの人のことを、自分のことのように心配してくれる親切な友が、ほかに一人か二人必要です。喜んで、相談に乗ってくれる友人が、たくさんではなくても誰かいるでしょうか。連れて行って、一緒に声をかけてくれる友人がいるでしょうか。

いざというときに、「その問題は難しそうだから」と、逃げてしまう人を当てにしてはいけません。何度か、相談したいときに声をかけて逃げられた経験があれば、この人はいよいよの時に力を貸してくれる人かどうか見極めがつきます。いよいよの時に力になってくれる人を一人か二人、大切に絆を保っておきたいものです。

最後に、私は大事なとき教会に相談に行けるでしょうか。教会に申し出ると言っても、教会に相談には行きたくないとか、教会に知られたくない、教会は敷居が高くて相談しづらいと感じているようでは、最後の最後に心配してくれる場所を持たないということになります。

確かに内輪のことを知られるのは恥ずかしいと感じることもあるかも知れません。ですが教会に相談に来れば、身内ではどうしようもなかったことでも違った方法を示してもらえることもあるでしょうから、決して尻込みしてはいけないと思います。そのためには、日頃自分が教会とどのような間柄にあるか考えておく必要があります。教会に相談に行けば解決できるかも知れないけど、行きたくないなあというのでは大変な損失です。

こうして、私たちは兄弟が身を滅ぼすのを黙って見過ごすことなく、どこまでも心配してあげる信者でありたいと思います。弱さを持っているのは誰でも同じことです。事の大小はあるかも知れませんが、私たちが身近な人のことをどこまでも心配するならば、カトリック信者はこんなにも周りの人を大切にしてくれるのだと心を打たれるに違いありません。また忠告し、立ち帰る姿を周りの人が見ることで、私たちを決して見捨てることのない神と、私たちすべてのために命さえ惜しまなかったキリストを、証することになるのです。

忠告するには勇気がいります。忠告する相手を真剣に思う気持ちが、心を開いてくれるきっかけになるかも知れません。また、私の相談を親身になって聞いてくれる頼もしい友を、同じ教会の共同体の中で見つけておきましょう。そして、日頃教会とのおつきあいが薄れていると感じたら、最後の頼みの綱を失わないためにも、教会との絆を大切にしたいものです。

私たちはふだん意識しなくてもいくつかの協力者を持っています。キリスト信者が助け合って一人も滅びないように、キリストご自身がこの交わりを計らってくださったのです。この助け合う絆を周りにも広げていくことで、もっとキリスト教の信仰が多くの人に身近に感じられるように、私にも必要だと感じる人が増えるように、このミサの中で願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マタイ18:21-35)
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