主日の福音05/08/28
年間第22主日(マタイ16:21-27)
神のことを思い、神から命を得る

今日の朗読で、いちばん語気を強めて語っておられるのは次の言葉でしょう。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)。同じ出来事がマルコ福音書にも記録されていますが、そこでイエスはペトロを叱って同じように言われたことになっています(マルコ8章33節参照)。このことを重ね合わせて考えると、先のイエスの言葉は、かなり強い口調で言われた、きつい口調で言われたことになります。

そこからすると、イエスが弟子たちに求めていることは明らかです。つまりイエスは、「神のことを思いなさい」「人間のことを思うのをやめなさい」と弟子たちに強く求めているのです。実はこの考え方に沿って今日の出来事を振り返ると、すべてに説明がつくことがわかります。

まず、イエスがご自分の将来について弟子たちに打ち明ける様子が描かれています。イエスがエルサレムで指導者たちの憎しみをかって殺されることが明らかになりますが、悲しい出来事ではあってもイエスにはそれを悔やんだりする様子は見られません。それはつまり、出来事は「神のことを思う」あまりに引き起こされるもので、最後には復活という栄光に満ちた命につながるものとなっています。もしここでイエスが神のことを思わず、人間のことを思うならば、危険を避けようと策を練ったことでしょう。そうではなく、イエスはご自分の最後の場面でも、「いっしんに神のことを思う」道を選んだのです。

次に、ペトロとのやりとりのあと、弟子たちへの呼びかけを行います。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節参照)。その後に続く言葉できちんと説明を付けています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。つまり人間のことを思わず、神のことを思うとき、人はまことの命を得ることになると言うのです。

また栄光に輝いて再び来られるときも、「それぞれの行いに応じて報いる」とあるわけですが、これもつまりはどれだけ「神のことを思い」「人間のことを思うのをやめる」生き方をしたかで決まるということです。何をどれだけしたかとか、人からどう思われたかを尋ねるのではなく、どれだけ神のことを思って生きたか、この点に応じて報いるというわけです。

先週馬込の港では、「伊勢エビ解禁・大漁祈願祭」を初めて行いました。仕事の中に、神の助け・保護を願うことがいかに賢いことかを少し話しました。私は自分の仕事を、まず神の祝福を受けて始めます。その現れとしておこなった大漁祈願祭は、神のことを思っている何よりの証だと思います。生活のいちばん中心になることと、神の助けとは実は深くつながっている。それが分かるようになると、再び来られる主からの報いは確かなものになるのです。

「神のことを思い」「人間のことを思うのをやめる」態度は、すべての人の生き方に求められる態度です。弟子たちに呼びかけられた言葉だから現代の12弟子と考えられる司教様や神父様にだけ求められていると思う人もいるかもしれませんが、イエスの呼びかけは、「わたしについて来たい者」「自分の命を救いたいと思う者」に向けられているのですから、司祭・修道者に限らず、すべてのキリスト信者にそれぞれの生活に応じて求められていると考えるべきです。

具体的に、いくつかの道に当てはめてみることにしましょう。司祭は話す言葉とふだんの生活態度で、信者を導き、イエスの呼びかけに応じるように促すつとめを任せられています。祭壇でミサを捧げるとき、「いっしんに神のことを思い」「人間のことを思うのをやめる」ようにしなければなりません。説教をするときも、ゆるしの秘跡を行うときも、病人に聖体を授けるときも、同じように振る舞っているかよく吟味する必要があります。

司祭がミサを捧げるとき、そばに小学生が付いて侍者をしてくれています。彼らは、子どもではあっても、司祭がいっしんに神のことを思い、ミサを捧げているならば、必ず影響を受けるはずです。祭壇の上を真剣に見つめるとか、司祭の招きの言葉にはっきりとした声で答えるとか、いちばんそば近くにいるのですから、司祭が一心不乱にミサを捧げていれば、必ずそれは伝わるのではないでしょうか。

そういうことで、侍者はきっと祭壇を真剣に見つめ、司祭の一つ一つの手の動きに注意を払っているに違いないと思ってたまに侍者のほうに目をやると、目はうつろ、手はぶらぶらさせて、あくびの声が聞こえたりします。これは侍者に責任があるのではありません。司祭が、祭壇の上で行われている尊いつとめを一心不乱に執り行っていないために、その態度が侍者に伝わっているのに違いありません。そう言われてみれば、なかなか一心不乱にミサを捧げるというのは難しいもので、全身全霊を注いでミサを捧げる体験を改めて積む必要を感じます。その意味で、先週の同級生の司祭と一緒にミサを捧げたときには、同級生がていねいにていねいにミサを捧げる様子は、大変参考になりました。

ゆるしの秘跡についても、「神のことを思い」「人間のことを思うのをやめる」頭では分かっていても、ちょっとしたことで気が散ったりすることがあります。たとえば、前の人と次の人が入れ替わるときに交わしているちょっとした声が、心に波風を立てることもあります。入れ替わりざまに入ってくる人が出る人に、「ドアを閉めてくれろ」とか、「部屋の暗さー」「おいは祈りば知らんとばい」「ちゃんと書いてあるけん心配せんちゃよかって」。何気なく口にしている声で、ちょっと気を散らしてしまうこともあるのです。それは私自身の修行が足りないからなのですが、気が散ったときに「いっしんに神のことを思う」と、すぐに立ち返る訓練が何よりも大切だと思います。

ミサにあずかる家族の中で、感心するなあと思った家族がおりました。どの教会でもそのような家族がいるものですが、その家庭の父親は、それこそ一心不乱にミサに気持ちを向け、隣で子どもがうろちょろしてもまったく目に入っていない様子でした。それでも子どもは相手をしてほしいわけで、まったく動じない父親の気を自分に向けさせようと、あの手この手で騒いでおりました。

気になるなあと思っていたそのとき、少し離れたところにいた母親のげんこつが飛んできたのです。おお!と思いまして、どうなるかと見守っていたら、あきらめて子どもも手を合わせて父親のするようにまねをしたのです。すると父親はその子の頭をなでてくれました。おそらく父親はまったく目に入ってなかったわけではなかったのでしょうが、一生懸命自分の態度を見せて、教会の中でのしつけをしておられたのだと思いました。その子も今頃は大きくなり、おそらく侍者でもしているのではないかと思います。

この「いっしんに神のことを思う時間」が、キリスト信者にとってどれほど大切かを、今週一週間考えていただきたいと思います。日々汗を流し、苦労して働く皆さんの暮らしで、自分のことを完全に横に置いて神のことを思う時間は、貴重な時間です。それは日曜日のミサであったり、朝夕のちょっとした祈りだったりするわけですが、つい最近、ある若いカップルに生活の中で神のことを思う時間を取ってもらいたくて、次のようなたとえを話しました。

「お二人は買い物をしたとき、国に消費税を支払わなければなりませんね。買ったその品物を手に入れるために、どの程度のお金を手放さなければなりませんか」「5%です」「そうですね。1000円の品物を買って、じっさいにそれを手に入れるためには、50円手放さなければ、手に入れることはできません。それは日本での決まり事ですから、わたしはいやだとは言えないわけです」

「ところで、お二人は一日に何時間働いて、その日の収入を得ているのでしょうか。たとえば8時間としましょう。その8時間の5%と言ったら、何分間に当たるでしょうか」「およそ、22分か23分と言ったところでしょう。8時間の労働で受け取るべきものは当然お二人のものなのですが、その5%の22分・23分は、手放しても良いとは思いませんか?」「つまり、その時間は、神様のために手放したらよいと思います。ふだん、5%手放さないと、欲しいものが手に入らないことは経験で知っているわけです。同じように、あなたが手にしている時間のうちの5%を、神様に手放してはいかがでしょうか」

「この話の延長線上なのですが、一週間の労働時間の5%はどれくらいですか?約2時間ですね。その2時間を手放して、日曜日のミサにあずかる時間としてください。ミサの時間と、行き帰りの時間、その合計は、いっさい自分のために使わず、神様のために使ってください。その工夫を怠らない人は、命を得ることになりますよ」

本人たちがどれくらい理解したかは分かりませんが、自分の命を救いたい人にとって、「神様のことを思う」「人間のことを思うのをやめる」工夫は、こうした身近なところにも転がっているのです。よく目を凝らして、全世界を手に入れようとあくせくして、自分の命を失うことのないようにしたいものです。
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年間第23主日
(マタイ18:15-20)
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