主日の福音05/08/21
年間第21主日(マタイ16:13-20)
社会に対して天の国を開く鍵となろう

今日は「鍵」について考えてみたいと思います。福音朗読はペトロが信仰を告白する場面が取り上げられています。ペトロの立派な返事を聞いて、イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と仰いました。福音朗読で出てきた「鍵」を解く鍵が、私たちの生活の中にあると思いますので、一緒に探してみましょう。

皆さんにとって「鍵」を使うのはどんなときでしょうか。大きく二つに分かれると思います。「閉める」ために使う場合と、「開く」ために使う場合です。中田神父にとっては、閉めるときよりも開くときのほうが大切な役割を持っていると感じます。なぜそう言うかというと、「鍵がなくてひどい目にあった」というのは、ほとんどの場合「開けることができずに困った」「動かすことができずに困った」という場合だからです。

こんなことがありました。古い司祭館の時代です。用事で長崎本土に出かけた帰り、司祭館に戻って玄関に立ってみると、手元に鍵がないのです。すぐに気がつきました。私は鍵を持たずに出かけてしまい、そのあとでまかないさんがいつもどおり鍵を閉めて帰ったので、入れなくなってしまったのです。どこか開いてないかなあと思いながら司祭館を一回りしましたが、どこをのぞいても鍵がかかっています。戸締りは万全だったのです。

困ってしまいまして、家主がわが家に入れないのでは格好がつきません。それで挙句の果てに、玄関右の木枠の窓を引っ張ってみましたところ、すんなり開くではありませんか。以前からこの古い木枠の窓は閉めたことがなかったわけですが、古い家だったおかげで入り口は見つけました。ところがもともと窓なのですから、よじ登って中に入る様子は、なんだか泥棒が侵入するようで自分でも恥ずかしいなあと思いました。

鍵を持たずに出かけて、がっかりすることはほかにもあります。慌てている時に限ってそうなのですが、車の鍵を持たずに出かけることがあります。司祭館の扉を自分で閉めて、これで良しと思って車を置いている駐車場に来てみると、車の鍵を握っていないのです。運転席のドアはいつも開けているのでこのときは開けるための鍵ではありませんが、運転席に座ることはできても運転ができません。また司祭館まで登らないといけないのかと思えば、うんざりです。そんなときに限ってぎりぎりに飛び出していて、船を一便延ばさないといけなかったりします。

こうしてみると、鍵がなくて困ったという場面は、しばしば「閉める」時ではなくて「あける」時、「止める」時ではなくて「動かす」時のようです。銀行の口座を出し入れするとき、入金は暗証番号も何も聞かれることはありませんが、口座を開いて引き出すときには暗証番号をたずねられ、うっかり間違いでもすればそのうちに機械が受け付けてくれなくなります。暗証番号もひとつの鍵ですが、開くときにこそ大切になってくる鍵といえます。

福音書に入っていきましょう。ペトロはイエスから、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。「つなぐ」とは、天国の入り口を開けてもらって入るということです。「解く」とは、入り口を開けてもらえず、締め出されるということになります。ここでの「鍵」は、どちらに重きをおいて考えたほうがよいのでしょうか。

やはり、「つなぐ」役割、「天の門を開く」役割のほうが大きいのではないでしょうか。イエスはそれまで開かれることのなかった天の国をすべての人に開くためにおいでになりました。そのイエスがペトロに託した鍵ですから、せっかく開いた天の国の入り口を閉めるために鍵が任せられたとは思えません。ペトロは、今イエスによって天の国が開かれ、これからも天の国が開かれていることのしるしとして、鍵が預けられているのではないでしょうか。

言ってみれば、ペトロに託された鍵は、「天の国を開いてくださったイエスそのものを表すしるし」なのです。「鍵を授ける」ことが、イエスの身分で振る舞うことになり、それは人を救いから閉め出すためではなく、一人も滅びることなくつなぎ止めるために、鍵を渡されたのです。

鍵を託されたペトロは、主から「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とも言われました。ですからペトロを頭とする教会もまた、世に対して救いの門を開く鍵であると言うことができるでしょう。教会を訪ねる人が、教会を通って救いにあずかる。その道具として、教会は働き続けなければなりません。教会を訪ねたら人が信じられなくなったとか、教会にすがってきたのにあなたは教会に来るべき人ではありませんと閉め出された、このようなことが決してあってはならないと思います。

では具体的に、馬込教会が伊王島の中で救いの門を開く鍵となるために、どのようなことを心がければよいのでしょうか。伊王島の中で、カトリックのおかげで導かれているという証を立てることです。三つ考えてみましょう。

一つは、幼い子ども、小さな子どもに接する方々です。ここではシスター方の働きが大きいと思いますが、命の大切さを、ぜひ幼子の時期に教え導いていただきたいと思います。カトリックの幼児園にお世話になったことで、命の大切さを理解できる子どもに育ちましたと感謝してもらえるなら、教会が社会に対して救いの門を開く鍵であることを示す大きな力となるでしょう。

二つめは、中田神父の受け持ちということになりますが、秘跡にあずかる機会をより多く準備してあげたいと思います。秘跡にもっと親しむことができるように教え諭すことと、初めて礼拝や秘跡を伴う典礼に参加した人に、教会の恵みのすばらしさを知ってもらえるようなふさわしい式を執り行うように心がけたいと思います。

三つ目は、皆さんお一人お一人が、教会を出入りすることで救いの恵みにふれて心の平安を保つことができていると、暮らしの中で証ししてくださることです。もっと言えば、本当の安心を得るための「鍵」はイエス・キリストに近づくことですと、態度で証明していただきたいと思います。あの人は信者なのに教会には近寄りもしないじゃないかと指をさされるようではいけないわけです。

鍵は、閉めるためのものでもありますが、多くの場合本当に役に立っているのは閉ざされたものを開くとき、止まっているものを動かすときです。私たちの経験がそのことを教えてくれます。また今日の福音も、救いの門を開く働きを積極的に担うように招いています。

私たち一人一人が、より多くの人にほんのちょっとでも教会の雰囲気にふれる扉を開く鍵となれるように皆で協力しましょう。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と仰ったイエスは、今日私たちにも、天の国をより多くの人に開く手伝いをしてくれるようにと促しているのです。
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年間第22主日
(マタイ16:21-27)
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