主日の福音05/08/15
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
マリアをより深く知り、さらにたたえよう

今日私たちは聖母の被昇天をお祝いしています。今年の聖母被昇天に当たってマリアの姿を黙想するために、13年にわたって一人のベトナム人司教様が書き残した教区民へのメッセージを頼りに進めていきたいと思います。名前はトゥアン司教様と言います。

このかたが13年間教区民にメッセージを書きつづったのはベトナムの共産政権によって逮捕・投獄された牢獄からです。トゥアン司教様は宗教指導者であるという理由で投獄され、途方もない危険にさらされたのです。

それにもかかわらず、トゥアン司教様は共産政権の言いなりにはなりませんでした。彼は監獄の中で、監視の目が届かない夜にベトナムの教区民のために手紙を書きました。小さな紙切れに短く走り書きされた、深い思索の跡は、密かに獄の外に持ち出され、手書きの写しがつぎつぎと信徒たちに配布されました。

その中の、聖母マリアについて書きつづられたメッセージの中に、大変心惹かれる手紙を二つ見つけましたので、今年の聖母被昇天に当たって聖母にならうきっかけにしたいと思いました。

そのうちの一つは、マリアに私たち自身を委ねなさいというメッセージです。天に上げられ、すべてのキリスト信者の母となられたマリアに自らを委ねなさいと、次のようにつづっています。

「自分のことがどんなに生ぬるく、罪深くて望みがないと思えても、あなたのすべてをマリア様の御手に委ねなさい。イエス様は、マリア様をあなたのために遣わして行かれたのです。マリア様が、どうしてあなたを見捨てることがおできになるでしょうか」(「希望の道」914番)

自分に正直で、傷つきやすい人ほど、神の前に自分はふさわしくないと嘆き、努力を投げだしそうになります。自分を偽ることができないので、自分の罪深さを悲しみ、投げやりになってしまうのです。そんなときこそ、トゥアン司教はわが身を聖母に委ねなさいと励まします。

イエスは十字架の上で母マリアに向かい、「見なさい、あなたの母です」と仰いました。母マリアを、かたわらにいた弟子にとっても母であること、イエスを信じる者すべての母としてお与えくださったのです。そのマリアは、今日天の栄光に上げられました。私たちは聖母をたたえると同時に、私自身を聖母に委ねますとミサの中ではっきりマリアに伝えたいと思います。

次に、マリアの生き方について新しい発見をさせてもらった一節を紹介します。マリアはイエスが危険にさらされているときこそ、聖書の中にそのお姿がはっきり示されていると紹介します。それは、私たちが危険にさらされるときにも、私たちのそばによりはっきりと感じられる形でとどまってくださることを示そうとしておられると考えました。まずはその一節を紹介します。

「主の公生活の中でもっとも輝かしい出来事−−タボル山上での変容とエルサレムへの入場−−の間、マリア様は隠れておられました。しかし、非常に危険なとき−−エジプトへの逃避行、カルワリオへの十字架の道行、十字架のもとでの悲しい見張り、そして使徒たちと奥の部屋でした徹夜−−このようなときには、マリア様はそこにいることを選ばれたのです。マリア様はご自分のためではなく、主と罪の贖いのお仕事のためにだけ、生きておられたのです」(「希望の道」928番)。

ここからすると、マリアの姿がよりはっきりと感じられる場面は、イエスが危険にさらされているときです。イエスのそばにいて、共に苦しみ、共に重荷を担うため、マリアは全存在をかけてそこに留まられたのです。同じように、私たちが困難や危険に直面するとき、マリアはより強く、より鮮明にそばにおられることを私たちに感じさせて、私たちを力づけ、励まし、同時に困難を共にしてくださると言えるのではないでしょうか。

マリアのこのような励ましに満ちた姿を、今年トゥアン司教様の書物を通して発見することができました。どうぞ皆さんも、聖母が天に上げられ、栄光に包まれていることをたたえるこの日に、どんなに自分が罪深く感じられるときでも私から離れずにいてくださるマリアに感謝することにいたしましょう。

また、困難に打ちのめされそうになるとき、そのときこそマリアは私たちのそば近くにいてくださることを信頼しましょう。聖母マリアが私たちにより近くいてくださると理解できたとき、天に上げられた喜びを私たちはこれまで以上にたたえることができるようになるはずです。
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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(マタイ16:13-20)
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