主日の福音05/08/07
年間第19主日(マタイ14:22-33)
助けは神のもとから来る

よく言われることですが、「できる」と思えばたいていのことはできるものだし、できないと思ってしまえば他の人からはできそうに見えても、本人はどうしてもそれを乗り越えることができないと言われます。中田神父の個人的な食べ物の好き嫌いで言えば、私は酸っぱいものは口に入れることができないのですが、これこそ、「できない」と思っているからできないのだと気づきました。

実は最近、酸っぱいものの代表と思っていたヨーグルトを隠れて食べるようになったのです。リンゴヨーグルトとか、アロエヨーグルトとか、食べてみると意外に酸っぱくないし、味も私が恐れていたような味ではなく、むしろおいしいと感じる味でした。ちょっと前までは、ヨーグルトは死んでも口をつけないと公言してはばからなかったのですが、変われば変わるものです。

きっかけは、夢彩都の地下で買った飲み物でした。あまりに暑かったもので何でもいいからと紙パックの飲み物を手にとってレジに出したところ、その紙パックに「飲むヨーグルト」と書いてあるではありませんか。ぎょええ!と思ったのですが、レジを打つお姉さんに取り消してくださいというのも面倒だったので、伊王島の灯台から飛び降りるつもりで、大波止からの船の待ち時間の間に飲んでみたわけです。意外とこれがおいしかった。

いろいろ聞いてみると、飲むヨーグルトが大丈夫なら、リンゴヨーグルトやアロエヨーグルトはもっとおいしいはずと勧めてくれる人がいました。元々食わず嫌いにすぎなかったのかも知れませんが、ああ、これで絶対に無理と思っていたことも、多くの場合自分次第で乗り越えられるものなのだと思ったのです。まずはこの、「自分でできないと思えばできない」ということから、話を進めていくことにいたしましょう。

さて、明日は伊王島町ペーロン大会の日です。あれっ?というくらいの練習で終わりましたが、ドラをたたいて船に乗り込むのは二回目、昨年と比べると小学生から中学生になった人、中学生から高校生になった人、それぞれ目を見張るくらい力をつけてきたと思います。力はついてきているのですが、気持ちがブレーキをかけると、持っている力を出し切ることはできません。明日の試合では、ぜひ「できると思ったら必ずできる」と、そう自分に言い聞かせて船に乗り込んでほしいと思います。

本当に不思議なことですが、頭の中で「もう力を出せない」と思ってしまえば、頭が体にブレーキをかけてしまって、出せる力も出せなくなってしまいます。たとえば櫂を漕ぐ力がなくなっても、声は本来は出るはずなのですが、「あー疲れた、もうダメ」と頭が信号を送ってくると、声も全く出なくなってしまうわけです。中田神父は誰がどんなにおいしそうにヨーグルトを食べていても、頭の中で「絶対に食べられるはずがない」という信号を出していたために今まで食べることができませんでした。七月あたりから生まれて初めてヨーグルトの前に並んで「どれを食べようかなあ」と選んだりするようになっています。一生涯ありえないと思っていたことですから、これは驚きです。

さて福音の朗読、弟子たちが湖で船を漕ぎ悩んでいるときに、イエスがおいでになり、嵐を静めてくださいます。イエスは嵐の中で湖上を歩いて近づいてこられ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけます。ペトロはイエスに信頼を寄せていましたので、「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願うとイエスは「来なさい」とおっしゃって、水の上を歩き始めます。

ペトロの体験は驚くほどのものでしたが、ペトロはこのとき決して疑わないというところまでイエスの言葉に信頼しているわけではありませんでした。強い風に気がついて怖くなったとあります。このとききっとペトロの頭の中では「これ以上は歩けない。もう無理だ」という信号を出していたわけです。気持ちの中でブレーキがかかってしまうと、その先にどんなにすばらしいことが待っていても、乗り越えることはできません。

誰かと向き合っていて、一方が「大丈夫、できるよ」と声をかけても、相手の心の中で「できない」とブレーキがかかってしまえば、信頼してついておいでとどれだけ優しく促しても乗り越えることはできないのです。一歩踏み出すことができれば、少なくともそばにいる人が手を貸してくれたり支えてあげたりしてもう一段高い場所へ移っていくことができるのですが、本人が「手を貸して」とか「教えて」と言わない限り、まわりが無理をさせても変わっていけないのです。本人の心の中でブレーキ信号が出ている間は、どんなにまわりが手を貸そうとしても、それは徒労に終わってしまいます。

イエスとペトロの間では、同じ問題はどのようにして乗り越えられていったのでしょうか。「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」といったんは信頼を寄せたペトロでしたが、風に気づき、おそれが生じて心にはブレーキがかかります。それをもう一つ乗り越えたのは、「主よ、助けてください」という叫びだったのではないでしょうか。

人間的にはこれ以上望めないときにさらに高いものを望むために、誰に声を上げるべきかをペトロはあらためて悟ったのです。今を乗り越える力を誰に願えばよいのか、「もうダメだ」と思ったときに手を伸ばして私を捕まえてくださるのは誰なのか、「主よ、助けてください」と叫ぶことでペトロははっきり悟ったのです。誰にも外すことのできない心のブレーキを外してくれるのは、イエス以外におられないのです。

先週私たちは、イエスが五千人の人に食べ物を与えてくださる奇跡を読みました。弟子たちには変えられない場面をイエスにお委ねしたとき、五つのパンと二匹の魚しか集められなかったにもかかわらず、イエスへの信仰をさらに深める高みへと弟子たちを導きました。そして今週は、船を漕ぎ悩んでどうしようもない場面を、イエスに全面的に信頼を寄せることで解決していただきました。もうダメと思えるような場面を良い方に変えてくださるのはイエスであり、そのためには私たちがもう一度思い直して「主よ、助けてください」と、はっきりお願いすることが必要なのです。

一人で困難に直面し、もうダメかも知れないと思っているなら、あなた自身が「主よ、助けてください」と真剣に願う必要があります。私の頭はすでに「もうダメだ」という信号を出しています。それでもなお一歩を踏み出すためには、変えられないものを変えるただお一人のお方に自分を委ねる必要があるわけです。

二人で困難に直面している、あるいはもっと多くの人数で困難にさいなまれていて、「もうダメだ」と思っているかもしれません。そこにいる人すべてが、ぜひイエスの伸ばした手に捕まって、もう一段高いものを目指してほしいのです。「誰か、助けてください」ではなく、「主よ、助けてください」とはっきり声を上げることを、今日の福音は呼びかけているのではないでしょうか。

ペーロンの練習で身も心も鍛えられ、ちょっとお疲れ気味だと思います。明日の試合で、これまでの練習のすべてを出し尽くします。ですが、たとえば隣の船に恐怖を感じたとき、心が「もうダメだ」という信号を出せばそこでもうブレーキがかかってしまうのです。そのブレーキを取り除いてあと一踏ん張り櫂を漕ぐために、「主よ、助けてください」とこのミサの中で声を上げましょう。そして、明日のレースの中で、「あーやられた、もうダメだ」と思う一瞬があったら、「主よ、助けてください」と私は願いたいと思います。

誰にでも、どんな集まりにも、「もうダメかも知れない」と思うひとときはあるものです。中田神父も毎週毎週説教を準備して、いつも納得のいく説教ができているかというとそうでもありません。疲れがじわじわと積み重なり、いっときにほかの用事が舞い込んで、ゆっくり日曜日の朗読箇所を思いめぐらすことができないときもあります。それでも、もしも一週でもサボって、「今週は説教準備できなかったのでお休みです」と言えば、説教集は印刷できないのです。

これまでに何度、「主よ、助けてください」と願ったことでしょうか。そのたびに、中田神父は手を貸してもらいました。助けは神のもとから来ることを、嵐を静める今日の福音朗読から、明日のペーロン大会から、体験によって学ぶことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(マタイ15:21-28)
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