主日の福音05/07/31
年間第18主日(マタイ14:13-21)
神がほんのちょっといてくださることが大切

物作りというのは独特の面白さや難しさがあってなかなか机の上では語れないものですが、幼い頃私はよく父親の見よう見まねで遊び道具を作りました。わりと簡単なものでは竹とんぼや竹馬、難しいものになると凧とか作りました。さすがに、父親の自慢だったメジロカゴまでは、穴が開くほど眺めていましたが真似はできませんでした。

その物作りについてですが、現在の私がそうであるように、父親も初めは決して手を出しませんでした。自分なりに結果を出して、それがうまく行かないとなると、ようやく手を貸してくれて、まともなものに完成していったものです。

竹とんぼは左右の羽根の削り具合をほんのちょっとですが調整してもらい、竹馬は足のせの部分がどうしても抜けてしまうのをきつく縛ってもらい、凧はぐるぐる回ってばかりでまったく空に飛ばないのを、長いしっぽをつけるでもなく、左右のバランスや骨組みの削り具合を見てもらっただけで、まったく違う生き物のように使えるようになったのを覚えています。

自分がいったん作ってみて、どうも調子が悪い時にいつも言う口癖は、「どらー。貸してみろ」でした。「どらー。貸してみろ」と言われて預けた時間はほんのわずかで、手直ししたのもほんのわずかのように思うのですが、そのおもちゃには命が吹き込まれて、立派な遊び道具に生まれ変わったのでした。

今、私には教えられたものを伝える子どもはおりませんが、それでもあの当時の経験は生きています。それは、「ひとまず相手に結果を出してもらって、それからちょっと手を貸してあげれば、その人は生き返ったようになる」ということです。私が手取り足取り教えてあげることもできるでしょうが、相手が行き詰まったところでちょっと手を貸し、それで息を吹き返すのであれば、これほど効率の良い話はありません。中田神父は、たいていそのやり方で出会った人が成長していくさまを何度も見送り、目を細めてきました。

今日の福音朗読は、イエスが男だけでも五千人という大群衆に十分に食べ物を与えてくださるという素晴らしい奇跡を取り上げていますが、イエスと弟子たちのあいだには、説教の初めにちょっと触れた親子の様子が当てはまるのではないでしょうか。別に中田神父の体験だけではなく、親と子の間には、同じような体験が共通してあるのではないかと思います。

弟子たちは、食べ物のことで群衆が混乱してはいけないと、町へ買い出しに出かければよいと考えたのですが、イエスはあなたがたが彼らに食べる物を与えなさいと仰って、大変重い課題を与えました。彼らは、まったく何もできませんとは言わず、ただ私たちに出せる結果はこれだけですと正直に答えました。

イエスは弟子たちが出した結果を「どらー、貸してみろ」と仰います。そこに、イエスにしかできない力を込めると、瞬く間に弟子たちの努力は結果になって実を結ぶのです。大変興味深いなあと思ったのは、イエスはまったく何もないところからこの奇跡を行ったわけではなく、弟子たちが出した結果をわざわざお使いになったのでした。また最終的に食べ物を群衆に手渡したのは弟子たちであり、イエスは弟子たちの小さな努力の結果を最後まで行かしてくださったのです。

子どもの遊び道具が、最初から親の作ったものであるか子供の作ったものを土台にしているかは、子どもにとっては大きな違いがあると思います。子どもが始めたことにほんの少し手を加えてもらって、驚くほどのものに変わっていく。それは子どもにとっては魔法をかけられたようにも思えたでしょう。そのようにイエスは、焼け石に水としか思えないような弟子たちの努力の結果であっても、そこから出発し、驚くような喜びに向かわせてくれるのです。

この間の、決定的な瞬間は何でしょうか。それは、父親のわずかな介入、弟子たちが出した結果へのイエスのほんの少しの介入です。「どらー、貸してみろ」という、あのほんの少しの介入が、決定的な変化をもたらしたのです。

ここで私たちが考えるべきことはなんでしょうか。それは、神がほんの少し介入することは、私たちにとって計り知れない実りをもたらすということです。加えて、神がほんの少し手を貸してくれるなら、すっかり私は生まれ変わるということを信じることだと思います。

私たちはほとんどの時間を汗をかきながらせっせと働いたり、毎日の雑事に追われたりして過ごしています。あるいは車いすの上で大半の時間を過ごしたり、ベッドで寝たきりで日が昇り、日が沈むという人もいるかも知れません。そうした毎日の繰り返しの中に、神がほんのちょっと間に入ってくださること、手を貸してくださることは、あなたの生活を生き生きとしたものに変えてくださるのです。

それまでになかったうるおいとか、感謝や信頼の気持ち、また一日頑張ってみようといった気持ちが、イエスとのふれあいがほんのちょっと加わるだけで与えられるのです。毎日同じことの繰り返しで味気ないと思っていたかも知れない。その毎日を、イエスは「どらー、貸してみろ」と言って手を貸してくださり、素晴らしい一日に代えてくださるのです。

私は、このパンの奇跡を信じているでしょうか。イエスがほんのちょっと手を貸したことが、あっと驚くような奇跡につながったことを、最初から最後まで神の独り舞台だと思ってはいないでしょうか。五つのパンと、二匹の魚、つまり人間のちっぽけな努力の結果が最初のとっかかりだったことを、私たちは見逃してはいないでしょうか。

神がほんのちょっといてくださることが、どれだけ大切かということを、今日の朗読から学びたいと思います。五千人の人にパンを食べさせる奇跡がどれほど大切かと言っているのではありません。「神がほんのちょっといてくださることが、どれだけ大切か」と言っているのです。

それでも何かを学ばない人のために、出血大サービスで一つヒントをあげましょう。神がほんのちょっといてくださることが大切です。たとえば、一週間のうち一時間、神があなたの時間の中でとどまっていてくださることがどれだけ大切かを、皆さんよくよく学ぶ必要があるわけです。何が言いたいか、お分かりでしょうか。

それぞれ、当てはめる物差しは違っているでしょう。「一日の中でほんのちょっといてくださること」「この仕事の時間の始めと終わりにほんのちょっと神さまがいてくださること」。あるいは「毎時間、毎分間、すべての瞬間に神がとどまってくださることがいかに大切か」と、それぞれの感じる物差しで当てはめて、神さまが私の生活時間にちょっと介入してくださることの大切さを今日学んでいってほしいと思います。神が私たちの中に介入してくださる効果は、今日の朗読によれば、「(なお)残ったパンを集めると、十二の籠いっぱいに」なるほどなのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)