主日の福音05/07/24
年間第17主日(マタイ13:44-52)
天の国を場所に閉じこめないで

今日の朗読は、先週の朗読と二つで一つのセットのようなものです。先週と今週をつなぐちょうつがいの役割を果たしているのは、「天の国は次のようにたとえられる」という言葉です。天の国を身近に感じるために、イエス様はあれこれと工夫して、話してくださいました。

そして、イエス様が話す天の国のたとえは、私たちに新しいとらえ方を与えます。今週は、この新しいとらえ方ついて考えてみたいと思います。イエス様が示してくださる「天の国のとらえ方」は、きっと今の信仰の歩みにもう一度力を与えてくれることでしょう。

「新しいとらえ方」と言いましたが、イエス様が示す天の国の新しいとらえ方をひとことで言えば、「天の国は限られた場所のようにとらえるよりも、一人ひとりのたゆまぬ努力、取り組みとしてとらえるほうが良い」ということです。

「場所」というとらえ方を思い巡らしていると、母親と蛤を探しに行った思い出がよみがえりました。中田神父の母親は新上五島町の蛤という土地で生まれ育ちました。名前が示す通り、「蛤」が取れる砂浜を抱えた土地でした。母は幼い私を、大潮の時期に蛤の取れる場所へ連れて行ってくれました。

砂浜をひっかく道具でしばらく引いて歩くと、子供の手に収まらないほどの大きな蛤に行き当たりまして、この浜のこの場所に蛤がいるんだよ、でもみんなには内緒だよと言い聞かせをしていたのを覚えています。

「場所」というとらえ方をすれば、その場所を知らなければ蛤を掘り当てることはできません。そして貴重な場所であれば、人間には欲があって、きっと人には教えたりしないでしょう。もしも天の国が「場所」という考えに縛られてしまったら、そこを偶然見つけた人は幸いですが、見つけることなく一生涯を終えた人は、決してそこにたどり着けないことになるのではないでしょうか。

イエスは天の国を「場所」に閉じこめることを望まなかったのだと思います。今日のたとえがそのことを示しています。特に朗読の初めに取り上げられている二つのたとえ方はもっと柔軟なとらえ方に私たちを案内してくれていると思います。

今日のたとえに共通する部分を取り上げるとこうなります。「誰かが、高価なものを見つけると、持ち物をすっかり売り払って手に入れた」。これは、どこかの場所を指し示す説明ではなくて、人間の取り組み・努力の様子を描いているのではないでしょうか。

そこで「取り組み」というとらえ方について考えてみましょう。中田神父は畑のことは知りませんので魚釣りを例にしますが、ある場所でけっこうなマダイが2匹、ヒラアジが2匹釣れたとしましょう。もしも、それらの魚がその日に釣った場所にしかいないとしたら、中田神父はもう二度と同じ魚を釣ってくることはできないと思います。もう一度同じ場所に行けと言われても、そう簡単ではないからです。

ですが、実際にはマダイが棲んでいる場所はほかにもいろいろあるわけで、釣れた時の取り組みを続けていれば、またいつか釣れることもあると思います。この前の場所でしか釣れないよということになれば、そこに先客がいればもう釣りはできなくなるということになります。

そうなったら釣りをしないのかというとそんなはずもありませんで、出かけようとしていた場所に先客がいれば、同じような条件の釣り場を求めて移動します。魚は、海の中の何丁目何番地にしかいないと考えることはまったく理屈に合わない話で、同じような条件の場所で、釣れた時の工夫をして取り組めば、きっといつかは報われると思っています。

もとの例えに戻りましょう。「畑に隠された宝」は、場所に結びつけて考えるなら、「宝は、あの畑に隠されていて、この畑には隠されていない」という意味になります。本人の望みや努力とは関係なく、たまたまその場所にいるかどうかで、宝を見つけるかどうかも決まるということです。

ところが、「努力」と結びつけて考えるなら、「畑に隠された宝」はすべての人の畑に隠されていて、あなたが努力して探しさえすれば見つかるという意味になります。いったいどちらを神さまは頭に置いて、このたとえを話したのでしょうか。

私は、後者の考えだと思います。「畑に隠された宝」は、すべての人に開かれているのです。天の国という宝を手に入れるために、誰もがそのチャンスを与えられているのですが、この世のものを横に置かなければ、手に入れることはできないのです。この世の何かを手に握っていては、その宝をつかめないのです。

また、高価な真珠のたとえでも同じことが言えます。このたとえは高価な真珠がどこそこにあるという意味ではなくて、あなたがたはみな高価な真珠と出会うチャンスを持っています。ためらっていては、その高価な真珠を失いますよ。限られたチャンスを逃さないようにしなさい。そういう意味で話しているのではないでしょうか。

場所にとらわれるかどうかは、他にもいろんな形で置きかえることができます。洗礼を受けている人と受けていない人。洗礼を受けている人はある場所にいますが、洗礼を受けていない人はその場所にいません。場所に縛られると、洗礼を受けている人は天の国に迎えられ、洗礼を受けていない人は入れないことになります。必ずそうなるかというと、そうとも限りません。その人が天の国を待ち望み、そのために努力することのほうがむしろ大切だと思います。

または、ある生き方を全うした人と全うできなかった人。全うした人はある場所に留まっているわけですが、そうでない人はその場所に留まっていません。場所にとらわれて考えるなら、天の国は留まっている人にだけ与えられるということなのでしょうか。私はそうは思いません。留まれなかった人にも、天の国は開かれているはずです。また違った形で、天の国を待ち望むなら、誰にでも開かれていると思います。

これまで私たちは、天の国を自分たちで狭い場所に閉じこめていたのかも知れません。これこれの人はその場所にいるから天の国が約束されていて、他の人は天の国から外れている。こうした考えは天の国の豊かさを自分たちで狭めてしまう考えです。

そうではなく、神がより多くの人に天の国を開いておられることを考えて、場所にとらわれない、天の国を待ち望む生き方・努力に注意を向けたいと思います。すべての人が、置かれた立場で、天の国のために努力することができます。天の国を得たいと希望し、努力を怠らない人は、天の国から遠くない人なのです。
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