主日の福音05/07/17
年間第16主日(マタイ13:24-43)
先回りせず、示された道を極める

今日の朗読で関心を引いたのは、イエス様がお話しになったたとえ話の中で、「敵が毒麦を蒔く」という場面を設定しているということです。私たちは何かもののたとえを使う時に、話す本人にとって思い付かないこと、取り入れたくないないことはたとえ例として挙げるとしても用いないものです。私たちの経験に反して、イエス様が「敵の仕業」について触れたというのは、イエス様の考えの中で「敵の仕業」というものは十分にあり得ると考えておられるということではないでしょうか。

たとえばそれは闇の力とか、悪の力と言ってもよいかも知れませんが、そうしたものが確かに力を振るうことがあるということなのでしょう。今日は少し、この「敵の仕業」という切り口から福音の学びを得て、私たちの信仰生活に活かしてみたいと思います。

たとえ話の流れからすると、よい働きに混じって敵は自分たちの悪い行いを仕掛けてくるということになります。ここで思い出すことを二つ挙げると、イエスがご自分の死と復活を予告しだした時、ペトロがイエスを脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16・22)と言ったことと、パウロの「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」(Iテモテ1・13)という過去の告白を思い出します。

12人の弟子の頭とされたペトロが、イエスを思うあまりに取った態度には、「敵の仕業」が含まれていたのでしょう。彼は「サタン、引き下がれ」(マタイ16・23)と退けられます。敵の仕業だったのかも知れないペトロの発言を曖昧にしておかず、はっきりと退けになったのでした。同じくパウロのキリスト信者迫害もまた、イエスご自身が彼を打ち、その行動をやめさせます。

ここから考えられることは、イエス様がこの世においでになったとしても「敵の仕業」は形になって現れるということが含まれているのでしょう。それと同時に、たとえ「敵の仕業」が存在するとしても、神は決して敵の業を放っておいたりはしない、必ず焼き払われるということも確かなのです。

そうであれば、私たちの時代が抱える矛盾にも、今日のイエスのたとえは一定の答えを与えてくださるのではないでしょうか。イエスがおいでになってからすでに2000年が経ちました。こんなに長い時間信仰は受け継がれてきたのに、悪はやはりとどまることを知りません。現代でも「敵の仕業」はそこここで行われています。けれども神は、この時代にあっても決して悪をお許しにならず、お認めにならないのです。悪を許さないのですから、それらは必ず焼き滅ぼされるのです。

この点を理解し、どう受けとめるかに、私たちの信仰が試されていると思います。神さまが試すということではないのですが、信じる力を鍛える必要が出てくると思います。それが、僕たちの言葉「行って抜き集めておきましょうか」に現れています。私たちは、神さまよりも早く裁きを下したり、神さまよりも出過ぎたことをして、それでいて神さまに当然喜ばれると思う危険があるのです。

このたとえで登場する主人は、父である神を写しだしている人物です。主人が取った唯一の方法は、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」ということでした。「忍耐し、最後の日まで様子を見届けなさい」ということです。ですが僕に代表されている私たち人間は、どうしても早く結果を見たがるのです。先回りして、神さまに任せられていることにさえも手を出してしまいがちです。

ここで、主人が取った唯一の方法、「最後まで忍耐し、結果を見届ける」という方法は、本当に正しい方法なのでしょうか。唯一の、適切な方法と言えるのでしょうか。ほかにもっと良い方法、たとえば僕が提案したように、早めに抜き取ることは考えなかったのでしょうか。

中田神父個人としては、他にも方法があっただろうにという気持ちが正直な気持ちですが、一つの決定的な形で、父なる神はこれが唯一の方法であり、神が選ばれた道であることを示されました。それは、御子イエス・キリストをこの世に遣わすということでした。

神は御子イエス・キリストに人間の救いを託されたのですが、イエスが取られた道はまさに、「忍耐し、赦すことで人間を救う」という道でした。十字架での最後の場面がその極みです。十字架は人間を救うために示された最高の忍耐の証・赦しの証でした。

ほかに取るべき方法があったかも知れませんが、一切の方法を脇に置いて、イエスは十字架にかかって、どこまでも忍耐と愛を示してくださったのでした。こうして、父なる神は人間の救いのために、唯一の方法として、「最後まで忍耐し、結果を見届ける」道を取られたのです。

「忍耐の道」は、ともすると「弱い者の選ぶ道」「最も愚かで見込みのない手段」と受け取られるかも知れません。ですが、私たちがどう説明づけようとしても、父なる神が御子イエス・キリストを通して示された「十字架を通しての救い」は、無視することができないのです。

いったんは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)とまで避けようとした道でしたが、最終的には受け入れたのです。考え抜いた挙げ句に、最後まで忍耐することを選ばれたのですから、私たちがこの道を別のものに置きかえることはできないのです。

パウロも、想像を絶するような迫害を経たのちに、神が御子を通して示された道に真理を見いだします。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Iコリント1:21)。パウロが「愚かな手段」とまで言った宣教とは、十字架にかかって復活し、救いを成し遂げたイエス・キリストを宣べ伝えることに他なりません。

ここに、私たちの信仰が問われています。忍耐し、最後まで見届ける方法はどうも、と思っているのですが、これが信じているイエス様を通して示された唯一の道であれば、私たちも受け入れます。この信仰がなくてはならないのです。

いろんな活動が実を結ばないとか、あの人を入れたら話が進まないから外したいとか、人間として思うことはいろいろあるでしょう。ですが、忍耐によって努力を積み上げることが、まずは神が示された道であるし、私たちにも必要な唯一の心構えなのです。

神は悪を放っては置かれません。忍耐しておられるのです。神の変わらぬこの態度が私たちにはなかなか理解できません。忍耐して努力し続ける大切さと、悪を最終的には焼き尽くされるのだということを固く信じることができるよう、ミサの中で願いましょう。また生活の中では、神が示された道として忍耐して実を結ぶことをよくよく学ぶことにいたしましょう。主は私たちに、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:19)と招いておられます。
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(マタイ13:44-52)
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