主日の福音05/07/10
年間第15主日(マタイ13:1-23)
あなたは御言葉を聞いて悟る人

人間は何かで成長し続けようと望むならば、決して成長は終わらないということを肌で感じました。土曜日に高島教会のミサに来るとき、大雨に降られてまいったなあと思っていましたが、いよいよ高島教会の門扉を開けて司祭館に近づいた時、頭の中ではこう考えていました。「高島教会の司祭館は雨漏りしてないだろうか」。

年数が経過した司祭館なので雨漏りするかもしれない。それは何も驚くことではないのですが、中田神父がわが身の濡れてしまったことは横に置いて、司祭館の雨漏りはないか、扉の閉め忘れはないか、一通り見て回ったというのが、我ながら感心したわけです。どんな司祭でも時間がたてば責任者・管理者の自覚が出てくるものなのだなあと。

さて実際はどうだったかというと、残念ながら雨漏り箇所が一箇所見つかりました。おそらく、雨の降り方がひどくて雨漏りになったのだと思いました。二階は濡れた形跡はありませんでしたが、一階の天井から雨がしたたり落ちていました。この様子だと、少しの雨なら心配はいらないのだと思います。

自分で自分を褒めるのは感心できることではありませんが、人間は成長を望み続ければ常に成長し続けるということの一つの例と思ってください。もちろん、これが世間一般の常識とか経験で終われば、説教台から話すほどの価値もないでしょうが、私自身が成長させてもらったのは、あくまでも司祭として生かしてもらったおかげだと思っています。司祭として、小教区の主任司祭としてこの小教区に種蒔かれたことで、少しはお役に立てる者に成長したということなのです。

そこで、皆さん自身も、人間の成長は何によるものなのかをあらためて考えてもらいたいと思います。人間の真の成長は、いったい何によるものなのでしょうか。自分自身の成功や失敗の体験でしょうか。常に考え続けようとする慎重さでしょうか。あるいは、そのほかの何かが関わっているのでしょうか。

私は、人間の真の成長は、神の御言葉が種蒔かれて、その御言葉を悟るかどうかにかかっている、そう言いたいと思います。今日の朗読の結びに次のようにあります。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」。はっきりと、御言葉を聞いて悟る者に、多くの実りがあることを物語っています。

さて本題に入る前に、今日の朗読について一つ前置きをしておきたいと思います。この種蒔く人のたとえは、最後は人の手が加えられて締めくくられていることに気づきます。どういうことかと言いますと、このたとえ話の始まりは、種蒔く人が種蒔きに出て、蒔いた種がこれこれのようになったと、蒔かれた種について話が進んでいます。

ところが、今日朗読した最後の結びは、種がどのようになったかではなくて、種を蒔かれた人がどのようになったか、その説明で終わっているのです。つまり、種がどのようになったのか、実はこの部分がイエスのたとえ話の引用であって、この話を書き残した時代には(おそらく西暦の80年頃だと思いますが)、イエスのたとえを自分たちの置かれている迫害のもとに当てはめて、イエスの御言葉が種蒔かれ、迫害の中でも懸命に信仰を保っている当時の人々に置き換えて理解したと考えるべきでしょう。ですから、今日の朗読は二つの部分が合わさった朗読箇所と言うことができます。一つはもともとのイエスのたとえ、もう一つは西暦80年代の状況に当てはめての解釈です。

さてこの前置きを踏まえた上で、もう一度今週掘り下げる点を確認したいと思います。それは、「御言葉を聞いて悟る者に、多くの実りがある」ということでした。二段階に分けて考えてみたいと思います。最初の段階は、「御言葉を聞く」ということです。

当然のことですが、イエスの御言葉を聞くためには、耳に触れる場所に私たちが居合わせなければなりません。そのためのいちばんの近道は、こうしてミサにあずかり、与えられた聖書の箇所に触れることです。主日のミサに定期的に参加する方々は、第一段階はひとまず通過していることになります。

第一段階が怪しい人もいるかもしれません。聖書に触れることがなければ、その先の多くの実りも期待できないのですが、ミサに来ない人が安全確実に御言葉に触れる方法があるでしょうか。中田神父は「ない」とまでは言えませんが、それは困難な道なのではないかと思っています。なぜなら、生活の中で、また家庭の中で、落ち着いて聖書を開いて御言葉に触れるのに、今の社会はあまりにも騒々しく、妨げとなる誘惑が多すぎるからです。静かに耳を傾けていてもほかのことを考えていて御言葉が通り過ぎることもあるというのに、自分一人で御言葉に触れる機会を絶えず持つということは、これは相当に困難な道としか言いようがありません。

皆で日曜日に集まり、皆が聖書の言葉に耳を傾ける。ミサの中で神の御言葉に触れるという方法は、私は大変すぐれた方法だと思います。一人の人間の努力に頼るのではなく、皆で助け合いながら、皆に励まされながら御言葉に耳を傾けるのですから、大変効果的なのです。その上にさらに、ミサが始まる前に一度目を通しておくとか、家に帰ってからもう一度読み返すならば、その効果は何倍にもなることでしょう。

もうすでに答えの半分は言ってしまったような気がするのですが、「御言葉を聞いて悟る人は、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ」とあります。真実に御言葉に耳を傾ける人の実りは、少なくとも三十倍はあると保証してくださっているのです。その上に、ひと工夫ふた工夫すれば、ある人は六十倍、ある人は百倍なのですが、たとえばそれは、ミサの前に一度目を通しておくこと、家に帰ってからもう一度読み返すこと、こうした工夫も含まれるのではないでしょうか。

前もって読む・あとで読み返す、この点は別としても、御言葉を聞いて悟る人は多くの実を結ぶという理解は、いい加減に考えるべきではありません。三十倍という実りがいかに大きなものであるかを、もっと真剣に考えるべきです。

たとえば皆さんの生活で、二倍便利になったとか、三倍楽になったという体験がいったい何回くらいあるでしょうか。洗濯機が現れたとき、掃除機が現れたとき、それぞれ体験したかもしれませんが、それらを足し合わせても、いったい何倍になるのでしょうか。十倍でしょうか、二十倍でしょうか。

ここで、御言葉に養われる人の実りの差がはっきりしてきます。三十倍です。皆さんのこれまでの経験の中で、三十倍になったという体験はあったでしょうか。もしも思いつかないとしたら、すぐに心を決めてください。イエスの御言葉にとどまる人は、十倍とか二十倍ではなく、三十倍からスタートするのです。もう一度繰り返しますが、イエスの御言葉にとどまるならば、三十倍の実りを得るのです。

私は、何に土台を置いてこれまで暮らしてきたのでしょうか。この世の何かを頼って、土台にして生きていたのかもしれません。けれども、目を見張るような収穫があったと思ったときでも、二倍とか、三倍といったところではなかったでしょうか。今日の福音ははっきりと仰います。イエスに土台を置いて生きる人、信仰に土台を置いて生きる人は、三十倍・六十倍・百倍の実りを得るというのです。

この呼びかけを聞いて、私たちに迷う必要はあるのでしょうか。信仰に土台を置いて生きる人と、信仰以外の何かに土台を置いて生きる人とは、絶対に超えられない差が開くのですから、迷う必要はないのです。

どうぞ、あらためて私たちの生活をふり返り、「御言葉に土台を置かなければ、目を見張るような実りは得られないのだ」と、はっきり悟ることにいたしましょう。この学びをもって、今週一週間を過ごしていくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マタイ13:24-43)
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