主日の福音05/07/03
主日(マタイ11:25-30)
来なさい、休ませてあげよう

7月3日、私の霊名の祝日を再びこの小教区で迎えることができて、ひとまずほっとしています。今日は福音の箇所と私の霊名のお祝いを結び付けて考えながら、最後に皆さんの霊名の祝日、記念日に目を向けていけるように話したいと思います。
今日の福音から、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という点を取り上げたいのですが、この1年2ヶ月ほどの期間に中田神父がいちばん力を注いだことが、まさにこの言葉に言い表されています。今日霊名のお祝いを迎えて、この朗読箇所をいただいたことを、深く神様に感謝したいと思います。
中田神父が赴任してすぐに感じたことは、「疲れた者、重荷を負う者がたくさんいる」ということです。たとえば喜んでミサに参加している人々と共にささげるミサと、疲れている人に囲まれてのミサとは、司祭は敏感に感じ取るものです。聖歌を歌う様子、聖書を朗読する様子、献金を集め、それをパンとぶどう酒と共におささげする様子を見れば、あーこれは皆さん疲れているんだなあ、あるいは喜びいっぱいなんだなあということは十年以上も同じことをしていればよくわかります。
疲れる原因は何か?ミサに来て疲れる最大の原因、それは説教の出来不出来です。これは間違いありません。というのは後の部分は、どの司祭が受け持ったとしても、極端に違ったりはしないからです。そこで中田神父は、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃったイエス様の言葉を、この小教区でそのとおりに実行すべきだと思ったのです。
説教を聞いてミサにあずかることで、休息をいただく。疲れている人が、力を得て生活に戻っていく。説教を聞いてそうなるように、ささげるミサにあずかることで確かに休息をいただいたと実感できるように、そのことにいちばん力を注いでこの1年ちょっとを過ごしてきたつもりです。
イエスがおっしゃった言葉に間違いはないはずです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。イエスのもとに来る、そのもっとも身近な体験は日曜日のミサにあずかることだと思いますが、ここに集まって、私たち一人ひとり休息をいただいたと感じているでしょうか。新たな力を得て、新たな一週間の生活に入っていくことができたでしょうか。
もし、信仰を得て今日まで、変わらずイエスから休息を得て力を蓄えて生活に戻ることができたとすれば幸いです。ですが、もしもミサにあずかっても休息を感じられず、力を回復できないとすれば、それはイエスの言葉が実を結ぶのを妨げる原因があるはずなのです。司祭の側から言わせてもらうならば、原因は説教ではないでしょうか。
ですから、この1年2ヶ月の間、おそらく60回以上の説教をこなしてきたと思いますが、それはすべて、「イエスの言葉が実を結ぶための説教」そんなつもりで努めてきたつもりです。毎週毎週取り上げられているみ言葉が、今私たちの教会でも実を結んでいますよということを示してあげること。突き詰めればこの一点が、中田神父の説教の狙いといってよいでしょう。そしてその極め付けが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というみ言葉なのです。
ここから考えると、疲れさせる説教などというのは中田神父のものさしで言えばとんでもない説教ということになります。イエスはご自身の話を聞く人に休息と新たな力をくださると約束しているのに、そのイエス様の身分でミサをささげ説教する司祭の話を聞いた人が疲れ果てるというのは、これはもう落第点です。
もちろん笑い話で楽しませるとか、その程度のことを言っているのではありません。耳に痛い話もあるでしょうし、考えを巡らせるために頭を一生懸命働かせる必要もあると思います。けれどもそれらが常にイエスの言葉を味わうものとなれば、痛い話、込み入った話からイエスにたどり着けるのであれば、それらはもはや心地よい疲れと変わっていくのではないでしょうか。
おそらく、説教を聞いて疲れるというのは、説教がまずいからではなく(そういうこともあるでしょうが)説教が少しもイエス様に導いてくれない、最後まで聞いてもその日の福音にたどり着けないから疲れるのです。中田神父が昨年四月に赴任してから数ヶ月の間に、説教を聞くのは疲れるなあという空気から、今日は何を聞くことができるのだろうか、そういう空気に変わったことをはっきり見て取りました。真剣に聞こうとして教会全体が水を打ったように静かになるすばらしい体験を、私は何度か味わったのです。
今週の福音は、こう呼びかけているのではないでしょうか。今週の福音と、過ぎた1週間に起こった出来事や、私たち一人ひとりがすでに体験してきたこととはつながっているのではないでしょうか。このように繰り返し呼びかけて、1年2ヶ月あまりが過ぎたわけです。
これからも、中田神父にとっての説教の理想は変わりません。今週の説教が呼びかけていることを探し続けますし、突き詰めれば「来なさい、休ませてあげよう」とおっしゃったイエス様の言葉がウソでないことを証明すること、ミサに来て、心も体も癒された、休息を得て、新たな力をいただいたと感じてもらえるように心がけること。これ以外にないと思っています。
その、振り返りのよい機会が、聖トマの霊名のお祝い7月3日であり、司祭に叙階された3月17日だと思っています。今年も霊名のお祝いをこちらで過ごすことができたけれども、最大の務めであるミサの説教の中でキリストを示し、キリストに導くことができただろうか。常に自分自身問いかける必要を感じています。
さて、ここから一歩踏み出して考えるわけですが、イエスは私たちに、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃるわけですが、私たちは自ら進んで、イエスのもとに足を運ぶことがどれくらいあるでしょうか。日曜日、進んでミサにあずかることで、イエスの招きに答えていると考える人もいるでしょう。
ですが、今の時点で日曜日にミサに来ているのはなぜか、もう一度よく考えておいてもよいと思います。今は日曜日のミサに行きたいと思うからでしょうか。数年後、それは変わらず続いているでしょうか。もしも、日曜日のミサに行っても、休ませてあげようとおっしゃるイエスを感じることができなかったらどうすればよいのでしょうか。もうそれっきりなのでしょうか?
そこで、ひとつの提案ですが、何か日曜日と違うミサに参加して、自分の気持ちを確かめてみてはいかがでしょうか。私は日曜日でなくてもミサにあずかる時イエスの休息を感じることができる。もしそうだとしたら、その思いは本物ではないでしょうか。
そこで具体的な勧めですが、あなたにとっていちばん意味のある日に、それは日曜日と関係なく、ミサにあずかってみてはいかがでしょうか。誕生日・結婚記念日・霊名の祝いの日など、年に一度回ってくるどれかの日に、ミサにあずかってみるのです。そうすれば、あなた自身の気持ちを確かめることができるのではないでしょうか。
私は、日曜日に限らなくても、ご聖体から十分な休息と力を感じる。私が求めている休息は、やはりイエスのおられるこの聖なる食卓、私に勧めと励ましを与えてくださるみ言葉の食卓からしか得られない。誰もが誘い合って集う日曜日とは別に、自分で決めた日に自分ひとりでミサにあずかったとき、「来なさい、休ませてあげよう」というイエスのみ言葉は本当だと感じることができるのではないでしょうか。
あくまでもこれはひとつの提案ですので、別の機会に「休ませてあげよう」とのみ言葉が本物であると理解するかもしれません。婦人会の皆さんで集まる教会掃除に来たときに、掃除に来ていながら何かしら休息と力を得るかもしれません。教会の守衛さんの勤めに顔を出して、しばらくの時間聖堂にとどまるとき、「休ませてあげよう」とのみ言葉に触れるかもしれません。ロザリオの祈りや、十字架の道行きなどで教会に集まったときも、きっとイエスはあなたに呼びかけて、「休ませてあげよう」とおっしゃっていると思います。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」このイエスのみ言葉は本当だと実感してもらうための努力は、まだまだ続きます。信仰の名のもとに集まることが休息と新たな力を得るものだということを一人残らず納得してもらうまで、私は与えられた務めを果たし続けたいと思います。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第15主日
(マタイ13:1-23)
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