主日の福音05/06/19
年間第12主日(マタイ10:26-33)
信仰者として覚悟を決めて生きる
先週中田神父にとって血の気が引くような出来事が一つありました。中田神父にとってぞっとするようなことではあっても、説教を聞いてくださる皆さんにとってどう感じるかはまた別の問題ですが、とにかく、これは大変なことになったと思ったのでした。
それは、コンピューターのことです。中田神父はたいていの事務処理を一台のパソコンでこなしているわけですが、かれこれ七八年使い続けてきたパソコンが、先週とうとう悲鳴を上げたのです。電源のスイッチを入れようとしたところ、まったくうんともすんとも反応しませんでした。
これは中田神父にとっては大変なことでして、電源のスイッチが入らないということはそのまま中に保管されている一切の資料に手を付けられなくなるということを意味しています。
中に保管されている資料をざっと並べますと、過去十年以上の説教の原稿、ここ三年ほどの説教の録音、これまでこなしてきた黙想会、講話の原稿と録音、皆さんと関係のあるところでは典礼の資料、お知らせを出した原稿、もっと重大なものは、洗礼や教会籍といった魂に関わる資料の控え(これはあくまでも控えですが)等に一切手を触れることができないということを意味しているわけです。
まあそれでもピンと来ない人はいらっしゃるかも知れませんが、このことを私自身の体で表しますと、まるでそれは朝目が覚めてみたら脳に障害が起こっていて、両手両足すべてまったく動かなくなっていた、そういう状態に例えてよいかも知れません。朝起きたらまずはミサをしに行かなければと思うわけですが、頭でそう思っても、手と足がまったく動かない、寝返りも打てない頭も上がらないとしたら、それは大変だと皆さんも思うことでしょう。たとえて言えば、そのような状態だったのでした。
頭をよぎったことは二つです。よく言われることですが、機械を信頼しすぎてはいけない、必ず資料は別の形で控えを取っておくべきだと言われます。私もそのことは十分承知してはいたのですが、予告もなしに電源のスイッチが入らなくなるなどとは思ってもいませんから、やっぱり何も準備をしていなかったのです。あー控えを作っておくべきだったと、今さらのように思いました。
もう一つは、頼むからあと一度だけ動いてくれと、そんな甘えも同時にありました。昨日までは何も問題なかったじゃないか、こんなことになったのは私のせいもあるから仕方のないことだけれども、あと一度だけでいいから、きちんと動いてくれないか。そうすれば、間違いなく予備の資料を残して、取り出しておくから。そういった思いでした。
頭をよぎった二つのことは、体にたとえても同じように当てはまります。何も問題を感じていない時に、健康診断を受けて、自分の健康状態を病院のカルテに控えとして取ってもらっておくことはとても大切な心がけです。私は大丈夫と思っていても、いつ病気になるか分からないのですから、やはり日頃から病院に健康状態を知ってもらっていればためになります。
また、残念ながら病気になってしまった、脳に障害が起こってしまって、両手両足が動かなくなったとして、やはり私たちは、あと一度でいいから、病気になる前のようにちゃんと動いてくれ、一度だけチャンスをもらえたら、しなければならなかったことをすべて果たし終えるからと、つい考えてしまうのです。実際には、手足の自由が利かなくなった場合は、あと一度だけ何もなかった時に戻してくれと言っても、そうはいかないわけです。
さてこれだけ怖い目に遭いますと、人間は覚悟が決まるか、恐れ続けるかのどちらかになると思います。今回私のパソコンは何とか電源のスイッチが入ったのですが、同じような体験をしてある人は「今度はいつあんなひどい目に遭うだろうか」とビクビクするかも知れません。またある人は、「機械に信頼しすぎてはいけないんだ。機械がどうにもならなくなった時の覚悟をしておかなければ」と考える人もいるでしょう。私は、これはいよいよになった時は、機械をあきらめなければいけない、その時の覚悟が必要だと考えました。
やはり、この世にあるものはいくら素晴らしい機械であっても信頼しすぎてはいけません。またどれほど健康な体に恵まれていても、神さまほど健康なわけではありません。昨日までどんなに過酷な仕事にもびくともしなかったからだが、朝起きたら障害が起こってしまっていて自由が利かなくなっていたということはあり得るからです。そこで人間が向かうのは、ただ恐ろしいと感じるだけなのか、それともこの世のすべてはいつか思い通りに行かなくなるのだと、覚悟を決めて日々を過ごすかだと思います。
さて、今日の福音でイエス様は弟子たちに、繰り返し「恐れるな」と弟子たちに呼びかけました。福音書が書かれた時代は、間近に迫害が迫っていた時代でしたから、イエスに付き従う弟子たちも、迫害の中で殉教したペトロやパウロのことを思う時、やがて自分たちも同じような目に遭うに違いないと恐れていたのかも知れません。
先ほどから話していることですが、突然の出来事を前にすると、人間は恐れてしまうか、覚悟を決めるかどちらかを選ばなければなりません。イエスさまに「人々を恐れるな」と言われても、過去に命を落とした弟子のことを聞けば震え上がるでしょうし、その危険が間近に迫っていると思えば、やがて来る未来に恐れをなしてしまうのは仕方のないことかも知れません。
こうしたか弱い弟子たちをイエス様は励まし続けます。「人々を恐れるな」。それは別の言い方をすれば、「覚悟を決めて、日々を過ごしなさい」ということです。人間から受ける迫害はあるかも知れない。でも人間は体を殺すことはできても、魂を殺すことはできないのだからと諭します。ペトロもパウロも迫害の中で殉教したけれども、迫害するものは魂を滅ぼすことはできなかったのだよと言うのです。
間近に迫る迫害についても、キリストは復活して勝利を受けたのだから、そのキリストがあなたのそばにいてくださるのだから、迫害が明日来ても、何年後かに来ても、私はあなたを必ず救うから恐れるなと仰っているのです。
私たちも、このキリストの招きの中で生きている者です。健康にたとえても結構ですが、明日体の自由が奪われるかも知れません。けれども私からキリストが離れることはないと覚悟を決めましょう。体の自由を奪われることがあるかも知れない。それでも、キリストは私の心の自由を奪ったりはしないのです。信仰者として、覚悟を決めるようにと今週の福音は呼びかけています。
これまで順調だった仕事を奪われた人がいるかも知れません。人間関係のもつれで、親しかった友を失ったり、兄弟でありながら目を合わせることさえできなくなっている人がいるかも知れません。さらにこれ以上、何か良くないことが起こるのではないか。畏れを感じる人はつい良くないことを考えてしまいます。ですが、キリストはそれでも私から離れたりはしないと覚悟を決めた人には、恐れを乗り越えて今日を生きていけると思います。
特に今日、次の方々に「恐れてはいけない」という言葉を届けたいと思います。それは、結婚などを通して新たに洗礼をお受けになった方々です。それまで家庭の信仰の雰囲気の中で育ち、特別な信仰心はなくとも別の信仰の中で何かしらの祈りを捧げていたかも知れません。それが、カトリックの方と縁があって結婚することになり、洗礼を受けることになった。あるいは友だちに導かれて洗礼を受けた。その方々には、生まれた時からカトリックの信仰にある人々とはまた違った不安があるかも知れません。
もしこの信仰があなたを助けてくれなかったとしたら、恐れにとらえられることでしょう。何のためにカトリックになったのだろうか、カトリックにならなくても、この人とは幸せに暮らしていけたのではないだろうか。恐れに捉えられると、今まで積み上げてきたものも意味がなくなるかも知れません。
ここではっきりと、中田神父は答えたいと思います。あなたの選んだことに間違いはありません。キリストは、新しく洗礼を受けたあなたを決して離れたりはしません。だから、覚悟を決めて、もう一度歩み始めてください。そう伝えたいと思います。カトリックになったのに何も慰めを受けなかったとしたらどんなに辛いことでしょうか。
この世のものは、いつか役に立たなくなる時が来ます。満足な体も、最新のパソコンも、すべて捨てなければならない時がやってくるかも知れません。けれど、あなたが得た物で一つだけ、決して失わないものがあります。それは、イエス・キリストその方です。
ぜひお一人おひとり、キリストはあなたから離れない、この覚悟を決めてこれからの日々を過ごしていきましょう。覚悟して今日を過ごす時、キリストしか与えることのできない平安があなたを包んでくださいます。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第13主日
(マタイ10:37-42)
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