主日の福音05/06/12
年間第11主日(マタイ9:36-10:8)
十三、十四、十五番目あたりは私

司祭の黙想会に参加してきました。大阪大司教区の補佐司教様が黙想の指導をしてくださいました。大変若い司教様なので、私たちからは聞きやすいお話をしていただきました。

その貴重な説教のうち、指導してくださった補佐司教様もいちばん心を砕いていたのは、最初の説教ではなかったかと思います。私たちもしばしば、最初の説教にいちばん注目するわけですが、この説教で取り上げた一つの点を、今日の福音の学びに結びつけていきたいと思います。

補佐司教様は、黙想会が始まる6月7日の福音の箇所から、「光」について話をしてくださいました。「あなたがたは世の光である」「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という、マタイの朗読箇所です。

補佐司教様はここで、ご自身がこれまでがんじがらめに縛られていた考えと、そこから解き放たれたあとの考えを紹介してくださいました。縛られていた頃の考えとは、あたかも自分自身が光の源であるかのように、清く正しく、道に逸れることなく完全な生き方を求められているのだという受け止め方でした。このような招きと受けとめるなら、とてもそのような道は歩けない、私には無理な招きだと考えていたということです。

ところが、キリストという光を人々に反射させることなら、私にもできるかも知れないと考えた時に、この日の福音朗読の招きを生きていけると感じたといいます。たとえばそれは、深い森の中で一筋の光が地表に届くさまに似ていて、深い森の中の木漏れ日は、地上に届くまでのあいだ無数の細かな塵に反射して光の筋を作っていくのです。

光そのものは無色透明ですが、その光は地上の無数の塵に反射することで、光の筋として人間の目に捉えることができる。そのように、光の源であるキリストは人間の目に見えなくても、私が光であるキリストを反射させる細かな塵・反射物としてお役に立つことだったらできるに違いないと、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」との招きを理解するようになったのだそうです。

たとえ、キリストを知らない人であっても、キリスト信者である私たちが光を反射させる無数の反射物になれば、光であるキリストを世に示し、目で見えるものにすることができるという考えです。さすが、司教様になるくらいのお方の仰ることは違うなあと感心して聞き入っていました。

さらに補佐司教様は、光であるキリストを反射させ、人々に見えるようにするためには条件があると仰います。それは、光の筋のなかに留まるということです。光の筋のなかに留まるとは、キリストの歩んだ道、キリストが勧めた生き方、招きの言葉から離れずに生きるということです。

そして、この光を反射させるために光の筋のなかに留まるわけですが、さらに細かなことを言うと、光の筋は高いところから地表まで行き渡り、高いところでも光を反射させる塵があり、中間、また低いところでも光を反射させる塵は必要です。つまり、キリストという光を、光の源である高い場所で反射させる徳の高い人々も必要ですし、中間で光の筋を肉眼に示す人々も必要ですし、いちばん低いところ、地のすれすれでもキリストという光を反射させるキリスト者が必要なのです。

徳の高い人ばかりがいれば光の筋が地表まで届くかと言うとそうでもなくて、それぞれに、あまり褒められないような信仰生活にある人でも、自分の場所でキリストを反射させる時、全体としては光の筋が光の源から地表まで、途切れることなく人々の目に映ることになるということです。

もちろん低い場所で反射させる人ばかりいればよいというわけでもありませんので、今の状態にあぐらをかくことは許されませんが、光の筋のなかに留まっていれば、キリスト信者は世に対して光を示すお役に立てるという考えは、大変ありがたい説明の仕方だなあと思いました。

さてここから先は中田神父がもう一つそこから踏み込んで考えてみたことなのですが、森の奥深くで光が漏れてくる木漏れ日を観察していると、光の筋は高いところでは糸を引くような細い筋ですが、低いところではそれが広い光の筋になっているように思います。

詳しい説明は分かりませんが、そこにキリスト信者の生き方を当てはめる時、光の源に近い、高い場所でキリストを反射させる聖なる人々は、右にも左にも逸れることなく光の中心に留まっている方々、それが地表に近くなるに従ってやや右や左に逸れる方々、ふらふらの状態で光の筋にやっと留まっている方々ということも言えるのではないでしょうか。

そうしてみると、何とか信者として留まっているといった、ふらふらの状態でも、イエス様は光の筋が広がっている場所で、うまく使ってくださるということもあるのではないでしょうか。イエス様は右にも左にも逸れない聖なる人々も、どれだけ促してもなかなかしっかりしない、ふらふらの状態の人々であっても、それなりに光の筋のどこかでお使いになる計画を持っておられるのではないかと思います。

ここまで考えて今日の福音朗読の一つの点、イエス様が十二人の弟子をお選びになったということを味わってみたいのですが、イエス様は評判も良く知識にもすぐれ、力のある人をかき集めたのではなくて、光の筋の中で初めから高い場所にとどまれる人もそうでない人も、お選びになったと考えることができるのではないでしょうか。

光であるキリストを世に示す大切な弟子たちを、地表まで途切れることなく反射させるようにいろんな段階の人々を弟子としてお選びくださったのかも知れません。もちろん、あの弟子が高い場所の弟子、この弟子は低い場所でキリストを反射させる弟子と、決めつけることはできませんが。

同じように、私たちにもイエス様は一人ひとり声を掛けて、キリストを反射させる者となるように呼びかけていると思います。キリストの光がすべての場所に一筋の希望の光として届くように、私たちはいろんな信仰の状態にあるかも知れませんが、高くても低くても、しっかり留まっている者でもふらふらしてついてくる者でも、キリストは必要としておられるに違いありません。

シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイスカリオテのユダ。この十二人の弟子の後に続く十三番目、十四番目の一人として、私たちもキリストを世に反射させる生き方を心に抱くことにいたしましょう。

どの場所にあっても、仮にそれが目を覆うような場所であっても、キリストの光を届けるためには私たちキリスト者が必要なのだという思いを、今日のミサの中で新たにし、今週一週間その思いを持ち続けることができるように願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(マタイ10:26-33)
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