主日の福音05/06/05
年間第10主日(マタイ9:9-13)
守りの姿勢では教会は立ちゆかない

月曜日、久しぶりに魚を釣ってきました。イトヨリ釣りのつもりで出かけました。ちょっと前まで、「イトヨリはまだはやか〜」という声を背中から浴びながら出かけていたのですが、頑なにイトヨリ釣りにこだわった結果、思わぬ魚「シロアマダイ」に巡り会いました。

いろいろ条件を振り返ると、確かに釣れたのが不思議なくらいです。潮は小潮、日も高く上がってから出かけましたので周りにも誰もいません。機械を止めた状態でどれくらい流れるかなあと思って様子を見ましたが、まったく流れません。ウーン、これは今日も空振り三振かと思って当てもなく竿を出していたのですが、キューッと竿を締め込むではありませんか。キューッですよ。

これを逃したら自慢もできないし、何が何でも仕留めねばと、慎重にやりとりをしまして、ようやく上がってきたのが写真の魚です。まあまあでしょ?ただ、証拠写真は残ったのですが、釣ったその場で大いばりしようとしてケータイで連絡を取っていたら、ケータイをいけすのなかに落としてしまいまして、ケータイはダメになってしまいました。ショップに行って何とか使えるようにならないのかと聞いたのですが「午前11時15分、ご臨終です」ということでした。高くつきました。

釣りをするには条件が良くないし、本人も釣れっこないと思っていて、どうして今回のような幸運に巡り会えたのでしょうか。理由は至って単純、舟でその場に出かけたから、ということだと思います。そこへ行って、竿を出さなければ、偶然もまぐれも起こらない、ということです。

まあ、考えられる可能性はあると思います。前日に長崎から釣りの好きな家族が遊びに来まして、帰りに残った釣り餌を置いて帰りました。使ってくださいということでしたが、その餌は私はあまり使わないミミズのような餌でした。ふだんと違ったものを使ったのが、たまたま良かったということはあるかも知れません。

また、潮はほとんど動いていなかったわけですが、潮がたるんでいる時にたまたま当たる魚もいるということですから、そういうこともあったかも知れません。いろいろ説明することはできるかも知れませんが、説明できるからといってその場で同じことができるとは限りません。ですから、幸運を引き寄せたいちばんの原因は、どういうことがあるか分からないのだし、とにかく行って、その場で釣りをしてみたということだったと思います。

さて今日の福音、イエス様がご自分の弟子としてマタイをお選びになり、徴税人や罪びとが大勢いる中で食事をされたという出来事が読まれました。イエス様がマタイを選ばれたというのは、大きな賭けであったと思います。イエス以外の誰も、誰一人として、徴税人マタイを弟子に選ぶ理由が分からなかったのです。弟子たちの中には反対意見を持っている人もいたに違いありません。

弟子たちは徴税人を弟子に加えるのは反対だと思ってはいても、先生がなさったことだからと表だって反対意見を言うことは出来ませんでしたが、ファリサイ派の人々は、面と向かって反対意見を述べたのでした。罪びとに交われば罪びとになるに決まっている。どうしてそんなことをするのかと、理解しようとしなかったのです。

ですが、イエスのなさり方は人間の理解を超えていました。罪びとの中に飛び込まなければ、罪を認めて悔い改める人も拾うことができないし、中には弟子として役に立つ人すら見つかるかもしれない。そのためには、ご自身が罪びとのまっただ中に飛び込まなければ人間は変わらないと思ったのです。

確かにその通りだと思います。自分たちの中にイエス様が来てくださる場合と、遠くから立ち返りの言葉をかけるのとでは、受け止め方が全く違います。自分たちのような者の仲間になってくださったと思えば、人からどんなに言われようとも、イエスについて行きたい、喜んで話に耳を傾けたいと思うことでしょう。どんな良いことがそこで見つかるか分からないのですから、とにかく行って、皆と交わることが必要なのです。イエスはその通りに実行して、大切な弟子の一人を見いだしたのでした。

イエスの時代に起こったことを私たちの時代に当てはめてみましょう。教会活動に自分から近づいて協力してくれる人たちがどの教会にでも何人かはいます。重宝するから、便利だからと言って、もしもその人たちだけしか見ようとしないならば、教会に隠されている宝をみすみす見逃してしまうのではないでしょうか。

あの人たちからは何も得るものがない、あの人たちには関わらない方がいい。もし遠くから眺めるだけで問題の中心に手を触れなければ、もしかしたら手に入れることができる良いものを、みすみす見失ってしまうのではないでしょうか。

季節はずれの大物も、見えない場所でどんな大物がいるか分からないのですから、行ってみなければ、竿を出してみなければ何も始まりません。「あの魚を釣って来てください。理論上は、あそこにもいるはずですから」と言うだけでは、手に入れたいものを掴むことはできないでしょう。

そうしてみると私たち現代の教会活動の中にも、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」というイエス様の言葉が、生きているのではないでしょうか。教会から長く離れている人を一人でも二人でも得るためには、やはりその人の中に私たちが飛び込まなければ、人の心を掴むことはできないのではないでしょうか。

実際問題、喜んで教会に来る人ばかりを相手にしては、これから先の教会は成り立っていかないと思います。子供の世代、孫の世代が、すべて教会に進んで行く人たちばかりとは言えないと思います。そのような現実に目をつぶって、今教会に来てくれる人だけで何でも事を済ませようとすれば、いつか集まっていた人はいなくなって、教会は誰もいないほこらになってしまうことでしょう。

このような言い方を許してもらえるならば、守りの姿勢ではなくて、攻めの姿勢が、これからの教会には必要だということです。教会から足が遠のいている人の中には、教会に行きたくても行けない、その人なりの事情があるかもしれません。ただ手をこまねいているだけでは、相手から立ち帰ってくるのは難しいかもしれません。そうであれば、教会みずからが足を運ぶのがいちばんです。

誰か、心を許せる人を通して、その人と同じ場所に立ってあげると良いと思います。そうすれば、私と同じ気持ちに立ってくれた、私のそばに来て、話を聞いてくれたと感じることでしょう。その努力を続けるなら、私たちはイエス様に倣って、これまであまり関わりたくないと思っていた人物、できれば巻き込まれたくないと思っていた人の中から、一人二人の立ち帰る人を手に入れることになるのではないでしょうか。

神様は、理論上可能であるかというような面倒なことを求めてはいません。出かけていって、そこで一緒に時間を過ごして、一人でも二人でも連れて来なさいと仰います。遠ざかっている人に近寄らないで自分一人を守るというのではなく、飛び込んでようやく掴めるものにも注意を向ける勇気を、今日のイエス様の姿から学び取ることにいたしましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
主日
(朗読箇所)
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