主日の福音05/05/15
聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)
イエスが来て私たちの真ん中に立たれます
過ぎた一週間で、珍しい体験をしました。そのうちの三つを紹介します。と言っても、大切なのはそのうちの二つです。
時間の順に並べますと、一つ目は、夜中の2時半に司祭館のチャイムを鳴らした人がいました。実はその日、どうやら部屋の電気を付けっぱなしにしていたようで、皆さんのうちの誰かが、「電気、付けっぱなしですよ」と玄関のチャイムを鳴らして知らせてくれたのかなあと思ったのです。
「おーすまんねぇ。つけっぱなしやったねぇ」そう言って謝るつもりで玄関の鍵を開けて扉を開いたところ、そこに若い兄ちゃんが一人立っていました。彼はこう言います。「あのー、お金がなくてどこにも泊まることができません。僕とあと何人かいるので、教会の中に泊めてください」。
私たちなら考えもつかないわけですが、彼らにとっては聖堂は公園内の建物のようなものなのでしょう。その日は夜中かなり冷えましたので、寒さも相当堪えていたのでしょう。
私はていねいに断りました。「ゴメンなあ。教会の中で君たちを寝かせるわけにはいかんのよ。教会の建物はそういうことには使えないの。ダメ。」「そうですか」。あきらめて彼は玄関から去っていきました。
二日後のこと、今度は夜明け前の朝4時のこと、電話がかかってきました。一度目の電話はまさかこんな時間にと思って取ることが出来なかったのですが、執念深く続けて電話がかかりました。また電話が鳴るので、今度は仕方なく「はい?教会ですが・・・」と答えると、「すみません。朝からミサがありますか?」という女の子の声です。
「朝のミサは6時半です」それだけいうのが精一杯で、布団に戻ってももう眠ることもできません。眠い目をこすって6時半のミサが始まった時、見知らぬ女の子が二人、ミサに参加しているではありませんか。私はあんな時間に電話した挙げ句にミサに来てなかったらよっぽど小言を言おうかと思っていたのですが、信者でない友だちを連れて、信者の女の子が来ていたのです。しかも、彼女はミサに不慣れな友だちに、親切にミサの流れを説明している様子でした。
司祭館にはいろんな人が、いろんな時間にやってくるものだなあと思います。最後は、足が40本ありそうな生き物の話です。どうしてお前が新築間もない司祭館で出るかなあと思うのですが、二階の勉強部屋で突然板張りを這い回りましたので、ビックリしました。スリッパで三回、思いっきり叩きましたが、翌日までその場でピクピク動いておりました。証拠写真も後ろに貼り付けています。
最後の足40本の生き物はどうでもよいのですが、夜中に訪ねてきた二通りの人々について、私は今日の聖霊降臨の出来事と結びつけることのできるものがあるなあと思ったのです。今日聖霊降臨に選ばれた福音書の中に、家の戸に鍵を閉めてひっそり隠れている弟子たちにイエスが来て真ん中に立ったとあるわけです。この出来事と、司祭館を訪ねた二通りの人には、結びつくものを感じております。
それは、聖霊降臨の出来事は、一つの言い方を許してもらうなら、イエスが人間の真ん中に来て立つ、そういう出来事だったのではないかなあということです。実際にはイエスは父なる神のもとへ戻られるので、聖霊が送られて人間の真ん中に立つ、この姿を皆さんに示したいと思います。
さて、朗読箇所のイエスが戸を閉めて隠れていた弟子たちのもとへ来て真ん中に立つことと、過ぎた週に起こった二つのことが、どう繋がるのかということから考えてみましょう。夜中の2時半に、聖堂に寝かせてくださいと言ってきた若者にとって、教会の建物は言ってみれば主任司祭の持ち物で、主任司祭の許しがあれば寝ることができると思っていたのでしょう。
ところがわたしは彼らの願いを断りました。教会にはイエス様が留まっていて、そこに人を寝かせることは、いかに主任司祭であっても許可を与えるわけにはいかないのです。若者にとっては考えの中心・真ん中には主任司祭がいましたが、主任司祭の考えの中心・真ん中にはイエスがおられたのです。イエスが真ん中にいると考えるなら、教会で人を寝かせることなど、決して思い付かないわけです。
次に、夜明け前4時にミサのことを尋ねてきた女の子は、なぜその時間に電話することになったかは知りませんが、司祭館に迷惑をかけることは百も承知で、ミサがあるかどうかを尋ねたのです。おそらく彼女の中には、信者でない友だちを誘ってミサに行くこと、たとえ主任司祭に迷惑がかかっても、朝早くに友だちと礼拝に参加したい、その思いが電話をかけさせたのではないでしょうか。
寝かせてくれと頼んだ青年と、ミサに何としてもあずかりたくて電話した女性とでは、明らかな違いがあります。先の青年の考えでは教会にはイエス様はいないのですが、ミサの時間を尋ねた女性の考えでは教会の中に、その中心・真ん中にイエス様がいらっしゃったのです。教会の真ん中にイエス様がいらっしゃると考える人の思いを、誰も妨げることはできません。たとえ主任司祭が夜明け前の4時にたたき起こされても、それはそれで構わないではありませんか。
今日、聖霊降臨の出来事を考える中で、この「イエスが弟子たちの真ん中に来て立たれた」ことを特に大切にしたいと思います。第一朗読の中では、聖霊に満たされた弟子たちが、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたとあります。
それは弟子たちがほかの国々の言葉を話していると考えれば驚くべきことですが、御父と御子から送られた聖霊が弟子たちの真ん中にいて、イエスの霊がいろんな国の言葉で話しておられると考えることもできます。そう考えれば、何も怪しい現象ではないわけです。神が、あらゆる国の言葉で話しているのですから。
こうしてみると、イエスが来て弟子たちの真ん中に立ったことは、聖霊降臨の出来事を考えるために大切な意味を持つことが分かります。聖霊を受けた人とは、あたかもその人の真ん中にイエスが立っておられるような人のことなのです。その人の考え・ふだんの行いの真ん中にイエスがおられるので、神が喜ぶことを最優先に考え、振る舞うのです。このような人は、確かに聖霊が降った人、聖霊に導かれている人なのではないでしょうか。
私たちを振り返ってみましょう。これまで私たちは、考えの中心・行動の中心には何があったのでしょうか。誰にも負けないくらい成功したいという野心が、あなたの真ん中にあるものですか。かつて貧乏な暮らしをしたので、裕福な暮らしにあこがれている。それが、あなたの真ん中にある考えでしょうか。この世のどれを取っても、本当はあなたの真ん中に立つのにふさわしいものなどないのです。
むしろ、あなたのところに来て真ん中に立つべき方はキリスト、復活して昇天し、聖霊を送ってくださるイエスが、私たちの真ん中に立つにふさわしい方なのです。イエスこそが私たちの真ん中に立って、考えと行動を照らし導き、何事を決めるにも物差しとなることのできる方なのです。
私たちが人に手を差し延べるのは、私の機嫌がいいからでしょうか。そうではなく、私の中心におられるキリストが、「行って、あの人の世話をしなさい」と心に語りかけるから、私たちは出かけるのです。私たちが日曜日に礼拝をささげるのは、最近信仰するのが楽しくなったという、気分の問題なのでしょうか。
そうではなく、私たちの真ん中に立っておられるイエスが、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と常に語りかけ、照らし導いておられるので、ここに集って一つの心、一つの霊で祈りを捧げ、礼拝しているのです。
今日私たちにも、御父と御子を通して聖霊が注がれました。私の生活の真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と声をかけ続けてくださるイエスの霊に信頼を寄せて、これからの新たな一週間を過ごすことにいたしましょう。考え方や行動がそのたびにクルクル変わる風見鶏ではなく、いつも中心におられる神の導きを物差しにして生きる者となれるようにと、聖霊に願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
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