主日の福音05/05/8
主の昇天(マタイ28:16-20)
イエスは一切の権能を授かっておられる

私はこちらの小教区に来て、いっぺん教会学校に来る子供たちの頭をスイカのように二つに割って、中がどうなっているのか見てみたいと思うようになりました。こんなことを思ったのは生まれて初めてのことです。

どう言えばよいのか、私もまだ整理がついていないのですが、私たちが信仰について習い覚えたことを今の子供たちに伝えるというのは、これまでのやり方では全く通用しないのではないか、そんなことを感じたからです。一方で平成の子供たちは、私たちが触り方すら知らない遊び道具を手にして、テレビの画面と向き合って何時間でも遊び続けています。

おそらく、平成の子供たちに合った教え方をすれば、いくらでも吸収する余地は残っていると思うのです。ゲームの楽しみ方について「子分」の小学生に事細かに説明する様子を見ていると、この子は大変優秀な子供なのではないかと錯覚すら覚えるからです。ですが、こと信仰のことについて私たちがかつて尋ねられたように尋ねてみると、全くお話にならない返事しかできません。この開きをどうやって埋めてあげればよいのか、現実の子供を目の前にしてため息をついてしまいます。

ついこの前のことです。毎週来いよと言っておいた一人の子供が、ようやく顔を出しました。けいこの日には来ないのですが遊びには来るんですよ。5月4日「国民の祝日」にもピンポンピンポン、できあがったばかりの司祭館のチャイムを、一度押せばよいのに二度も三度も押して、「遊びに来たよ。神父様の邪魔はせんけんね」と言ってテレビに道具をつないで遊び始めます。国民の祝日、日本国民はすべて休む権利があるはずです。私は子供が乱入してきて、半日休みを失いました。

だいたい、けいこには来ずにどの面下げて・・・とも思うのですが、大人げないと思って気持ちを落ち着け、お菓子をもってきたら、お菓子は黙って食べるんです。牛乳をつげば、これもまた黙って飲んで、二杯目をつげばまた黙って飲み干します。けいこの時も黙って話を聞いて、教えたことをごくごく飲み込んでくれれば良さそうなものですが、なかなかそうはいかないのです。

ふらっと来たその子に、私は教会のお祝い日について話をしようと思い立ちました。何か知っているお祝い日を言ってご覧と聞けば、「御復活」と答えました。ああこの調子だと、御昇天・聖霊降臨と、話を進めていけるなあとこちらは思ったのですがそうは問屋が卸しません。御復活のあと、イエス様はどうなったと続けると、赤ちゃんで生まれたと答えました。御復活のあと、またすぐ生まれたのか?ほかに何もないか?そう水を向けても何も答えてはくれません。

仕方なく、イエス様の一生涯を順に追って、年表の穴埋めをし始めます。イエス様は生まれて、三十三歳で亡くなって、復活した。三十三歳まで、何をしたのかと聞けば、「さあ」としか言いません。「さあじゃ分からんだろう?何かした人だから、イエス様を神様とみんなが信じたんだろう?何をしたんだ?」「分かりません」「何もしないのに、イエス様のことを信じるのか?」「権威者たちからいじめられた、ですか?」「ほお。いじめられると、神様だとみんなは信じるわけか?」「いいえ」「何かしたんだろう?何をしたんだ」

「何をしたんですか?」「おまえが答えなきゃ誰が答えるんだ?死んだ人を生き返らせたり、目の見えない人を見えるようにしたり、そういうことはしなかったのか」「たぶんしたと思います」「たぶんじゃない。そういうのを何と言うんだ」「分かりません」「奇跡、奇跡!」「ああ」「今手渡した聖書を最初のページからめくって、奇跡を探しなさい」

しばらく探したあげくに、こう言いました。「見つかりません」「ほおー。じゃあ奇跡は何もしてないんだな。どこにも書いてないんだな。奇跡も何もしないで、どうやってイエス様を神様だと信じたんだ?」さらに頁をめくって、苦し紛れにこう言いました。「律法学者と問答したと書いてます」

「それは奇跡か?律法学者との問答のどこが奇跡なんだ?」「えーと」「だったら探せよ。神父様はおまえが探すまで絶対助けないからな」「見つかりません」「じゃあ奇跡もせず、何もしないで聖書の物語がよく30頁も40頁も書き続けられるなぁ。何か書いてあるだろう。」

もうじれったくなりまして、それぞれの物語につけられている小見出しを何でもいいから読み上げさせたわけです。そうしているうちに次のようなものが見つかりました。「重い皮膚病を患っている人をいやす」「口の利けない人をいやす」「おい、それは奇跡じゃないのか?口の利けない人が利けるようになるのは偶然か?奇跡じゃないのか?どうなんだ」「奇跡です」「何でそれが分からないのか」「いや、小見出しに奇跡って書いてあるところを探し続けていました」。

おそらく、何かがずれているのだと思います。私たちが習い覚えたときに通用していた話の持っていきかたでは、平成の子供たちには通用しないのです。それでいて、今指摘されたものが奇跡なんだよと分かると、「嵐を静める」とか「二人の盲人をいやす」とか、その後は次々に見つけ出すわけです。最初から見つけろよ、ここまで来るのに何十分かかったと思ってんだよと思うわけですが、やはり教える側のどこかが、今の子供たちに伝わっていない、響いていないのだと思います。

つくづく私は、現代・平成の時代こそ、来週の聖霊降臨がどうしても必要だと思いました。聖霊だけが、話したことをことごとく分からせてくださる力を持っています。私の話し方では、どこをどう話しても分かってくれない子供たちに、どうか、どうか聖霊がすべてのことを分からせてくださいと、心から願わずにはいられないのです。

そして、聖霊が降るためには、どうしてもイエス様は天にお昇りになり、御父のもとへ帰る必要があります。ですから今日の御昇天の出来事も、どうしても必要になってくるのです。本来は、今週と来週の祝日に話を持っていって、ミサにあずかる心の準備に当てたかったのですが、果てしなく時間を消費して、イエス様が奇跡を行ったことそれだけ伝えて終わったのでした。このままでは彼の中ではイエス様はまだ死にも復活もしてないし、当然四十日後の御昇天も、五十日目の聖霊降臨も起こりえないのです。

私も、今日の説教の時間を果てしなく浪費してしまいました。私が、今週の御昇天の祝日に選ばれた朗読から特に大切にしたい箇所は、イエス様の次の言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28章18節)。それはつまり、イエスは今ここに至って一切の権能を授かったのだから、世界は、もっと言えば宇宙もすべてご自分の心のうちに収められているということです。

イエスの心の中にすべてが納められているのであれば、イエスがこの世を去って御父のもとに戻っても、あるいはこの地上にとどまっていても、その支配と導きには何も不都合は生じないはずです。天の父のもとからすべてを導くとしても、一切をご自分の思う通りに導くことができる。そういうことなのではないでしょうか。ですから一切をご自分の手に収められた主は、これからは天の父のもとからすべてを導くことになさったのです。

かつてことばとさまざまな奇跡でこの世にいて人々を導いた主は、その当時と全く変わらない支配を、今は天から行われるのです。もしも、平成の子供たちがイエスの生涯を理解し、復活後にイエスが昇天して聖霊を送られた、その御生涯のすべてが理解できるようになったとしたら、私はこの平成の時代にも聖霊降臨は確かにあったのだと叫びたいと思います。

どれだけことばを並べても分かってくれなかった子供たちが、ある時ふと信仰の大切な部分について語り始めるならば、そこには確かに聖霊が注がれいているし、イエスは天に昇ってそのあと聖霊の時代に移ったことが私の目にもはっきり分かるというものです。

ぜひそのような光景を見たいと思いますし、できることなら、これだけ目をかけてあげた子供たちの中から、「あのときは手取り足取り教えてもらったんだなあ」と気がついて、彼ら自身が次の世代に伝えていってほしいと思いますし、そのような光景を晩年に私が見ることができるとすれば、今の苦労はまったく惜しいと思いません。

この平成の時代にも、一切の権能を授かったキリストが御父のもとですべてに支配を及ぼし、聖霊を送って信仰に関わるすべてのことを理解させてくださるように、心から願いたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨
(ヨハネ20:19-23)
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