主日の福音05/05/01
復活節第6主日(ヨハネ14:15-21)
あなたがたをみなしごにはしておかない

連休初日の金曜日、なかなか出る機会のない修道院と司祭館の方々を連れて「長串山(なぐしやま)つつじ祭り」に出かけてきました。ちょうど雨が降る前のいちばん見頃のときに当たってつつじが目に鮮やかでした。きれいに咲き誇っていたのですが、写真を撮るのを忘れてきました。なにせ車で連れて行ったつつじがあまりにも美しかったものですから、山のつつじを写真に収めるほうは忘れてしまったのです。ウソを言う時は、これくらい分かりやすく言っておけば迷惑かかりませんよね。

連れて行った伊王島つつじは、年齢もさまざま、性格もさまざまで、それは交通船を降りた時から如実に表れました。タクシー2台に分かれて8人乗りの車を借りている大司教館に行きましょうねと言ったのですが、一人は船を降りるが早いかさっさと歩いていきまして、タクシー乗り場ではなさそうな場所へ消えてしまいました。これでは先が思いやられると思っていましたが、何とか大司教館で合流できまして、つつじの見学に漕ぎ着けます。

さてつつじの見学が始まりますと、今度は別の一人がどんどん先へ歩き始めまして、あっという間に上の方まで登ってしまいました。そうこうしているとほかの二人がつつじの中に消えまして、タクシー運転手の私はお客さんが迷子にならないように、一人も取り残されないようにと様子を見に行くわけです。手のかかるお客さんやなあと思っていましたら、自分たちで下山してきました。

最後に、つつじ公園を経つ時間を決めていたのですが、これまた「早く帰りましょう」という一声で予定よりも早く帰り、私にとっては大変忙しいつつじ見物でした。おまけに西町の純心のシスターにはソフトクリームを8本おごれと脅されたりしまして、身も心も細くなって帰ってきた次第です。

お客さんを乗せていった私がいちばん気を遣ったのは、一人も迷子が出ないようにということでした。誰が、公園に行った途端に羽の生えた蝶のように飛んで回る人なのか、もしこれこれの人が近くに見えなくなったら、どこを検討つけて探せばよいのか。そういうことで一日神経を遣いました。

おかげで一人も行方不明が出なかったわけですが、この日の経験で強く思ったのは、一人も見失わないようにするためには、いちばん動きの早い人に注意を払うよりは、いちばん遅れそうな人に注意を払うことが大事だということでした。実はこの点が、今日の福音朗読と大いに関わってきます。

今日の福音朗読の中で私が一番目を引いたのは、イエス様の次の言葉です。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(14章18節)。みなしごとは、親を失った子どものことですが、そこから考えられるのは、親に先立たれて取り残された子どもたち、弱い立場にあって、何らかの事情で集団に遅れてしまう子どもたちのことを指しているのではないでしょうか。

イエス様は、復活の後四十日目には御父のもとにお戻りになります。御昇天です。弟子たちはこの時イエスが自分たちのもとから離れていくことに不安を覚えていたのだと思います。自分たちは頼るべき方に見放され、みなしごのような状態になってしまうのではないだろうか。イエスはそのような不安を打ち消すために、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と仰っているわけです。

ですが、人間の不安はその場の慰め・励ましの言葉だけで取り除かれるものではありません。イエスはそこで、弟子たちがみなしごのような状態にならないことを、言葉に伴うしるしで保証してくださいます。それが、「弁護者・真理の霊」と言われる聖霊です。イエスが昇天なさったのち、みなしごのような思いを弟子たちが感じないように御父御子は時を置かずに聖霊を送ってくださいます。

ところで、私は説教の初めに、迷子を出さないためにはいちばん後れを取りそうな人に注意すべきだということを言ったわけですが、このことはイエスと弟子たちの間ではどのように考えればよいのでしょうか。もしかしたら、弟子たちの中で自分たちがみなしごになるといちばん強く思っている弟子がいて、その弟子に注意を払いながら「あなたがたをみなしごにはしない」と仰っているかも知れません。

ですが私は、もっと私たちも含めて、イエスがどんな人を念頭に置いて「あなたがたをみなしごにはしない」と仰っているのか考えたほうがより分かりやすいのではないかなあ、と思っています。弟子たちだけがみなしごにならなければよいわけではなく、信じるすべての人が、今日の朗読を読み、信頼を寄せるすべての人がみなしごにならないようにとイエスは願っているに違いありません。

そう考える時、先に触れた「歩みのいちばん遅い人」に注意を払うということが生きてきます。歩みの遅い人とは、足がかなわなくなった人のことではなくて、自分からは信仰の道を歩もうとしなくなっている人たち、長く教会との関わりをおやすみして、遠のいている人たちを、みなしごにしてはいけない、この人たちに注意を払うことを怠ってはいけないということを言いたいのです。

たとえば一例としてですが、今年の聖なる三日間で、聖木曜日と聖金曜日には、聞く所によるとそうそうたるメンバーが顔を揃えてくださったのだそうです。私は心を込めて十二人の足を洗い、十字架の道行きを唱えることに集中していましたから、その顔ぶれはまったく目に入っていなかったのです。

もちろん私は、あの人この人をまな板に載せるつもりでこんなことを言っているのではありません。そうではなくて、教会は、遅れて今にも迷子になってしまいそうな人にいつも注意を向けています。

イエスは誰もみなしごにならないように気に掛けているのですということを伝えたいわけです。私たちがもしも、「あの人がなんで来たのか」とか「一度来たって、どうせまた来なくなる」と気に掛けようとしなければ、イエスの思いを遮る妨げの石になってしまうことになるのです。

私たちの中に実際の歩く力が弱っている人がいるように、信仰の面でも歩く力が弱い人がいるに違いありません。もしも私たちの誰かがその人たちを叱って、なぜ歩くのが遅いのかと言えば、その人はもう教会に心を開かなくなるのではないでしょうか。

いちばん歩みの遅い人でも、みなしごにはしないというイエスの思いを私たちもしっかりと理解して、小教区の一人ひとりを教会にの絆に繋ぎとめていくことにしましょう。仮に私よりも歩みの遅い人がいたら、その人が取り残されないために、そばにいるあなたがあと少し待ってあげて、取り残されないように、みなしごにならないように手を差し延べてあげましょう。

必要なお世話はそれからです。手を差し出す前に、これこれの規則や習慣を守ってくれないと中に入れられないと言うのではなく、手を伸ばし、その人の手を取ってから、さまざまな守るべきことを守っていけるようにする。誰もみなしごにしないための心配りは、いよいよこれから始まるのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マタイ28:16-20)
‥‥‥†‥‥‥‥