主日の福音05/04/17
復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)
牧草をつねに見つけるコツがある

先週大司教様を迎えての司祭館祝別式と交わりのミサには、大勢の方においでいただき、喜びをともにしていただきました。感謝申し上げます。何とか天気が持ちこたえてくれたおかげで、ほとんどの儀式を滞りなく行うことができました。残念ながら多くの信徒の皆さんが集まっての祝賀会は取りやめになりましたが、全体としてはこれまでの努力が報われたなあという一日でした。

一つだけ、予想外のことが起こりました。今流行の言葉で言えば、「想定外」のことでした。それは感謝式の時です。経済評議員の方が感謝の言葉を述べている途中、皆さんのうち何人かが、拍手をした部分があったと思います。こんなことになるとは、思ってもみませんでした。

挨拶をなさった役員の方は何十回も挨拶の練習したそうですが、拍手は練習してなかったでしょうから、これは確かに「想定外」の出来事でした。それだけに、皆さんの気持ちが嬉しくて、ありがたいなあと思ったわけです。

ただし一つだけ、皆さんに自白しておきたいことがあります。中田神父は調子に乗りすぎました。今回事情が事情で、会食は役員と大司教様という限られた人数の中で開いたわけですが、その席で私に挨拶が回ってきまして、つい調子に乗ってこう言ったのです。「挨拶をしてくださった役員さんはたいへんご苦労様でした。まあ、わたしが作文を書けば、もっと上手に書いただろうと思いますが、たいへん立派な挨拶でした」と。

これはあとで思い返すと、言ってはいけなかったなあと反省しております。本当はこの日を迎えるまでのちょっとした苦労もいろいろあったのですが、あとのことは一切を心に納めて、天国へ持って行こうと思っています。

これまでずっと協力してくださったお一人おひとりにあらためて感謝したいと思います。これでようやく、住むべき家に落ち着くことができます。ありがとうございました。なお引っ越しは木曜日の午前8時30分となっておりますので、一人でも多くの方にお手伝いいただきたいと思います。

さて今週の福音朗読は「わたしは羊の門である」と仰るイエス様の呼びかけを、「どう読み・どう理解するか」ということにかかっていると思います。「どう読むか」ということで言えば、私の読み方は「門」は中に入るにふさわしいかふさわしくないかを見分ける「しるし」となり、また中に入るにふさわしい人が門を出入りするなら、必ず牧草を見つける、このように読み、理解しました。

もう少し短くまとめると、「門」はふさわしい人を見分ける検問所、その検問を通った人は安心して中にあるものを利用し、楽しむことができるということができるでしょう。門は、あたかも空港の身体検査のような働きをしているわけです。

空港の身体検査所では、危険物を持ち込んでいないかが厳しく検査されます。イエスもまた、ご自分が通用門となって、私たちが神の国に危険物を持ち込まないか見ておられると思います。神の国での危険物は、敵意・憎しみ・怒りなどです。これらは人を傷つける刃物のようなものですから、それら一切を捨てなければ、門を通ることはできないのです。ほんの少しの憎しみも、門を通してはもらえません。兄弟に、親戚に、何十年も昔に起こった出来事にさえも憎しみや怒りがあれば、門を通ることはできないのです。

心をかえて、一切の悪意を捨てました。門を通ることができるようになりました。門を出入りすると、そこには何があるのでしょうか。たとえば空港では、身体検査を通過して安全が確認されれば、空港の外では決して買えないような商品を買うことができたり、もちろん飛行機に乗り込むこともできるようになります。

イエスという門を出入りすることをゆるされた者は、神の手の中でしかいただくことのできない恵みに満たされますし、門の外では決して味わえない喜びと平和を味わうことができるのです。

ここまで考えると、「門」を出入りすることがいかに大切なことかがだいたい分かってくると思います。そこでもう一歩踏み込んで、今の私たちにとって、「門」を通るための準備ができているかを考えることにしましょう。憎しみや怒りを捨てる以外に、何か別の物を横に置く必要があるのではないでしょうか。

私はもう一つ、手放さなければならないものがあるように思います。それは、「慣れ」「勝手な思い込み」そういったものです。この一つの危険を捨てて門を通らなければ、牧草を見つけ出すことはできないのではないでしょうか。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(10章9節)。これはイエス様が保証してくださった確かな真理なのですが、もしも私の心に、「門をくぐったその場所にあるものは、もうわたしは分かりきっている。あれとあれとそれだ」と心の中で考えるならば、自分の言った言葉のために、何も新しいもの、新鮮なものを見つけることができなくなってしまうのではないでしょうか。私の思い込みのために、せっかく門をくぐってもそこで牧草を見つけることなく、恵みに気付かずに生活に戻ることになるのではないでしょうか。

決してそうであってはいけません。何年、いや何十年であっても、勝手な思い込みを捨ててイエスという門をくぐるならば、私たちはそこに新しいもの、新鮮さを失わない恵みを見つけ出すのです。中田神父にとって、そのための工夫は、「初めから見直す・一から出直す」ということかなあと思っております。

私が特にそう感じている理由は、説教するために朗読する聖書の箇所は、どれだけ見ても三年間ですべての箇所が出尽くしてしまうのです。仮に私が四十五年司祭職を勤め上げるとすれば、十五回、一つの箇所で説教をしなければならないということになります。もし、皆さんが、入学式の挨拶を十五回勤め上げるとして、十五回とも違う話を考えることを思えば、入学式だからだいたいこのようなことしか話すことがないと思い込んでしまえば、十五回とも違う話をすることなどできないに違いありません。

それでも、何か新鮮なものを見つけ出して人に伝えるためには、与えられたことに毎度毎度、一から取り組み直すことが何より大切なのではないかと思うのです。毎年御復活のお祝いは巡ってくるわけですが、やはり準備の四旬節から、毎年原点に戻ってみる、一から出発し直して御復活のお祝いを迎えるようにする。その気持ちが、何年経っても新鮮な恵みのひとときを迎えるために必要なことではないでしょうか。

「その人は、門を出入りして牧草を見つける」。これはイエス様のお約束なのですから間違いはありません。私たちがこの約束を実感するためには、いつも最初に戻って出発し直す、黙想会や、何か大きな出来事を機会にして一から出直してみる。その繰り返しの中で、私たちの信仰はいつも新しくされていくのです。
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‥‥次週は‥‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
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