主日の福音05/04/03
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
信じる者になりなさい

すでに皆さんの多くが何らかの形で教皇様の容態が悪化し、死の危険に瀕していることを耳にしていると思います。強靱な忍耐力でみずからの病と闘ってきましたが、最後の時間は神様が痛みを和らげてくださり、平穏な時間を与えていただけるようにと願っています。どうか皆さんも、教皇様の残された時間を、祈りのうちに共に過ごしていただきたいと思います。

今日、復活節第二主日、一昨年ほどから教皇様の意向で「神のいつくしみの主日」とも呼ばれるようになった日曜日を迎えました。巡り合わせとでも言うのでしょうか、神のいつくしみを考える日曜日に、神のいつくしみを心の底から願い求めています。

神は、心の病んでいる人にも、体の病んでいる人にもいつくしみ深い方。朗読された福音の中では頑なに主の復活への信頼を拒むトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と諭して、頑なな心を和らげてくださいました。心に傷を負って、信じることができないでいた人をいやしてくださり、いつくしみを示してくださいました。

同じ復活の主は、今生死の境にあるヨハネ・パウロ二世教皇様を、きっといつくしみ深く見守ってくださると思います。心の病にも寄り添ってくださいますが、特に私は、体の病に苦しんでいるであろう教皇様のそばで、いつくしみを示してくださいと、願わずにはいられません。

教皇様の容態を神様にお委ねして、福音から一つの点を取り上げて話したいと思います。それは、「神のいつくしみを与えられた福音朗読から読みとりましょう」ということです。そして、「神のいつくしみの福音」とも言われるルカ福音書を引用するなら「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)ということです。今週の招きとしてふさわしいと思いました。

復活した主は、何回も弟子たちや婦人たちに現れてくださいました。そして、そのたびに何かしらの勧めを与えます。今日の朗読箇所では「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と仰っています。

これは、罪を赦す権限を使徒たちにお授けになった場面だと言われますが、すべての信者に結びつけるならば、「主が赦してくださったように、行ってあなたがたも互いに赦しあいなさい」という招きとして受けとめることができます。それが、神のいつくしみを人々に告げ知らせる一つの方法になります。

心を頑なに閉ざしたトマスにも、イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と仰いました。弟子であったトマスですら、イエスの復活を受け入れることができない瞬間がありました。イエスはトマスにいつくしみを示し、トマスは自分に示されたいつくしみを忘れることなく、のちに人々にトマスの体験を語ることでしょう。

ここでもイエスは、「行ってあなたも同じようにしなさい」と招いていると思います。どんなに心の強い人でも、信頼を失う瞬間があるものです。神様がいるなら、どうしてこんな試練を与えるのかと、投げやりになっている人がいるかも知れません。私たちはそのような人のところへ行って、神はあなたにもいつくしみを示してくださいますと、告げ知らせに行くのです。神のいつくしみを学ぶ人は、学んだことを人々に届けに行くのです。

考えてみると、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」との言葉は、「わたしにそんなことできっこない」という思い込みの殻を破る大切な勧めなのではないでしょうか。私たちは、赦せないと思っている人がいて、その人の顔を見るだけでもはらわたが煮えくりかえる思いをすることがあるかも知れません。

人間の思いだけではとうてい赦せないと思っても、聖霊が注がれて、私を超える神の力強い支えのおかげで、できないことができるようになるのではないでしょうか。神は、あの人を赦せないと思っている私にいつくしみを示してくださる。そうであれば私たちも、許し難いその人に、神のいつくしみを届けるために赦してあげるべきなのです。

神のいつくしみをその場面に見つけましょう。信じられない弟子に神はいつくしみを示してくださいました。いつくしみをそこに見いだしたなら、私も人に対していつくしみを示す者となりましょう。私たちが届けに行くいつくしみを通して、人々が神のいつくしみを知るものとなりますように。
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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
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