主日の福音05/03/27
復活の主日(ヨハネ20:1-9)
主は復活して現れてくださる

あらためて、主の御復活おめでとうございます。福音朗読に選ばれた箇所は、マグダラのマリアがイエスを収めた墓へ出かけてみると、墓は空であったという出来事が選ばれました。イエスは復活して墓にはいない、墓以外のどこかほかの場所で、あるいは墓以外の何かから、イエスの復活に気付きなさいと招きます。

まず、福音から今年の新たな気付きを分かち合いたいと思います。マグダラのマリア、それと彼女に促されてあとで出かけた二人の弟子は、墓にイエスの名残を探しに行きました。この人々にとって、イエスとの時間は止まってしまい、もはや過ぎ去った出来事として墓の中に納められているものと思い込んでいたのでした。

マグダラのマリアも弟子たちも、イエスを失ったという気持ちに変わりはありませんでした。マグダラのマリアはそれでも、すべてを失ったとは言っても墓に行けば亡骸は残っている、唯一残されたものがあるからと思って墓へ赴きました。出かけてみると墓は空になっており、彼女が期待していた最後の頼みの綱は断たれてしまったのです。とても、イエスが生きておられた頃に話していた「わたしは死んだ後三日目に復活する」ということには気持ちが向かなかったのだと思います。

今週の朗読では読みませんが、来週の朗読には復活したイエスと出会って、すっかり変えられていく様が描かれています。イエスの復活は文字通り、死から命へ移り変わるほどの、すべてが変わる体験だったのです。そしてこの体験は、私の見たところ今年この教会に、この小教区にも起こっていると思っています。

今年、2005年の聖なる三日間の典礼は、実り多い三日間ではなかったかなあと思っています。実は黙想会の時から、今年は何か手応えのようなものがありまして、この「手応えのようなもの」が、三日間の典礼まで続いて欲しいなあと思っていたところでした。

三日間の典礼の中で、私にとって収穫があったのは、私がこんなことを言うのも恥ずかしいことなのですが、復活したキリストがこの黙想期間から聖なる三日間に至るまで、私を照らし、励まし、動かしてくださったと実感できたことです。黙想期間と聖なる三日間の典礼期間中、私は締め切りに追われる物書きの人のような状態で、与えられたテーマに沿う話を延々と作り続け、話し続けたのでした。

その間、少なくとも二度、私を動かす何かを感じ、「この黙想会の話がこれで完成できる」「聖なる三日間の説教が、これで完成できる」ということを感じました。黙想会中の実感は省略しますが、聖なる三日間の説教のことを、ここで少し分かち合いたいと思います。それは水曜日、あることをして少し体を休め、くつろいでいた時のことでした。

テレビもつけず、音の出るものを何も使わずにくつろいでいた時、何と言ったらよいのでしょうか、こう話しなさい、こんなことを告げなさいというような話の輪郭のようなものが、突然降ってきたのです。かなり夜も遅くなってからのことでした。

すぐに、原稿書きに取りかかりました。夜中の二時半までかかりましたが、ふだんであれば典礼当日のギリギリまでまとまらないものが、完全な形で書き終えることができたのです。これは私にとっては本当に有り難い幸せでした。

何が、そうさせたのか分かりませんが、今日の御復活の主日を迎えてみると、やはりこれは復活したキリストが確かにおられて、私の心と体を照らし導いてくださったと、そうとしか考えられないのです。イエスは墓の中で眠っておられるのではなくて、復活して会うべき人に出会い、その人たちを動かし続けておられるのだと、今年の聖なる三日間の典礼の中で感じたのでした。

次に、信徒の皆さんお一人おひとりにとっても大きな収穫があったのではないかと思います。それは、この教会の何かが、確かに復活したということです。復活はまぎれもなく、死んでいた人が神に呼び起こされてまったく新しい姿に生まれ変わること、神によって滅びない者としていただくことです。この聖なる三日間、もっと言うと黙想会の頃から、「死んでいた人が生き返り、いなくなっていた人が見つかった」(ルカ15・32参照)体験をしたわけです。

この復活体験は、あの人・この人にだけ当てはめるべきものではありません。確かにある人にとっては、それは「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言えるほどの大きな喜びの体験をしたかも知れません。ですが私の考えでは、この教会が、この私たちの小教区全体が、何かの形で「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」という体験を通ったと言えるのではないでしょうか。

きっかけとなった一つ二つの出来事があったかも知れません。けれどもそれらはきっかけに過ぎません。やはりいちばん深い所では、復活したキリストがこの聖なる三日間に私たちと出会ってくださった、復活したキリストが私たちの教会・小教区を復活させてくださったというのが正しいと思います。人間がどれだけ促しても変わらないものが変わり始めたとすれば、それは死んで復活したキリストが、出来事を良いほうに向けてくださっているに違いないのです。

今年、復活の体験を司祭も信徒も共に味わえたことを深く感謝したいと思います。けれどもこの状態で私たちは安心してはいけません。この喜びを失うことなく、次の新たな段階に船出する、歩き始めることがこれからの大事な目標です。歩みを止めることなく、前に進んでいく恵みを願い続けたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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