主日の福音05/03/26
復活徹夜祭(マタイ28:1-10)
恐れながらも大いに喜んだ

主の御復活おめでとうございます。今年は主日の典礼の暦は三年周期の一年目、A年を祝っていますので、朗読はマタイ福音書です。マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行ったところから物語は始まっています。

この一連の出来事の中から、私は今年初めて、今まで取っつきにくくて敬遠していた部分を取り上げることにしました。それは、出来事を目の当たりにした婦人たちが、「恐れながらもおおいに喜んだ」という部分です。私にとっては婦人たちが「恐れと喜び」を同時に体験したことが相当引っかかっていましたので、今日まで避けて通ってきたのでした。

なぜ私が避けて逃げてきたか。それは、同じだけの体験、あるいはそれに近い体験を持っていなかったからです。同じだけの体験を積み上げていればあえて避ける必要もありませんから、私には時間が必要だったということです。

その、時間が私にも巡ってきたような感じがしています。「恐ろしい」という思いと、「飛び上がらんばかりの喜び」が同時にやってくる体験を、司祭館建設の途中で経験しましたので、今日の説教のとっかかりとして話してみたいと思います。

それは昨年の八月二十日のことでした。一通の英文の手紙が舞い込みまして、中を開けると、クウェートの大富豪の妻という方からの手紙でした。彼女は敬虔な信者であり、死の危険にあるとのことでしたが、自分が亡くなった場合に残る遺産を、同じ信仰を持っている誰かに善意の寄附として差し出したいという内容でした。

ご存知かどうか知りませんが、クウェートは石油の国で、大半の人がイスラム教徒「アラーの神」を信じる人々です。当然ご主人もそうで、できれば自分の遺産はイスラム教の人々に渡って欲しくないということでした。代理人が資産をすべて管理していて、この代理人と連絡を取れば、手紙の受け取り主(つまり私のことですが)は合法的にすべての遺産を寄附として受け取れるということでした。その額何と、5億3千万円です!

たまげました。腰を抜かす位驚きました。天使から復活の出来事を知らされた婦人たちのように、「恐れながらも大いに喜び」(28・8)、このことを誰に知らせたらよいだろうかと大騒ぎしたのです。

結論から言いますと、このやりとりは大司教様の命令で中止せざるを得ませんでした。実際に届いた手紙を、後ろに貼り付けていますので、教養ある皆さんあとで読んでみてください。私はこの手紙が信用できるものか確かめたかったので、東大経済学部を卒業している一人の神父様と、福岡の大神学院にまったく同じコピーを送り、この人の言っていることは本当かどうか確かめてもらいました。

しばらくして返事が来ました。この手紙を読む限り、悪意はない、だから行動を起こしても良いのではないか、そういうことでした。八月下旬といえば司祭館建設の資金繰りをどうすればよいのか考え始めていた時でしたので、これは天からの恵みでしょうと、私も飛びつこうと思ったのです。

「喜んであなたの遺産を受け取りましょう。ちょうど私たちの教会は司祭館を建設しようとしていた矢先でした。十分にあなたの願いに答えることができますので、あなたの遺産を管理している代理人の住所を教えてください・・・」だいたいこんな感じの手紙を私のつたない英語で書きまして、返事を待ちました。すぐに代理人の住所と連絡方法が帰ってきて、これは夢ではないかと思っていたのです。

ところで、私一人の判断で動くことは危険すぎましたので、大司教様にこの手紙とこれまでの経緯を手紙で伝えたところ、大司教様の判断は、これ以後相手の方との連絡をいっさい取ってはいけないということでした。なぜ?どうして?と思ったのですが、聞く所によるとマフィアが資金を洗浄するために、教会を利用したりすることがあるのだそうです。きっとそういうたぐいの手紙だから、簡単に乗ってはいけないということでした。

あまりにも高額の寄附でしたので、惜しい気持ちもありましたが、確かに話ができすぎていたかも知れません。結局最後は一夜の夢と消えてしまいましたが、あの時の体験を振り返ると「恐れ」と「喜び」とはある場合一緒にやってくることがあり得るのだということだけは、十分に理解することができました。今考えると、もらったお金で建てていたら、新しい司祭館に何の意味もなかったかも知れません。

私の体験は結果を伴いませんでしたが、イエスの復活は最後の結果までついてきました。イエスは婦人たちの行く手にたって、「おはよう」と声をかけ、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」と仰ったのです。婦人たちの行く手、それはつまり婦人たちのこれから先の人生に、復活したイエスは寄り添ってくださって、どこへ行っても復活の喜びを告げ知らせる者として生きていくようにとの励ましが込められていたのだと思います。

私の経験からすると、「恐れながらも大いに喜ぶ」ほどの出来事は、人生の中でめったに起こることではありません。もしかすると、一度あるかないかかも知れない。マタイ福音記者は、婦人たちの体験が、他では絶対に考えられない、イエスの復活でしかあり得ない体験だったので、イエスの復活と、復活したイエスに婦人たちが出会ったのは事実であると確信して、この物語を残したのだと思います。

婦人たちにとって、復活の出来事は作り話などからは味わえない「恐ろしさと大きな喜びを同時に味わう体験」でした。そしてこの復活の喜びは、先へ行こうとする中で与えられます。希望を失い、後ろ向きになった人にではなく、希望の見えない中でも、絶望しかけている中でも、それでも前を向いて歩いていこうとする者に与えられるのです。

たとえばそれは、降って湧いたようなお金を蹴ってでも自分たちで建てようと決心した時、本当の意味で道が開けたのでした。あなたたちの力で絶対に建てることができるよ。神様はあえて試練をお与えになって、復活のキリストがそばにいて助けるから、あえて困難を伴う道を選びなさいと仰っていたのだと思います。

また、教会に行って何の意味があるのかと疑いを持ったことがある人にも、そこで寄りつかなくなった人には復活のキリストは体験できませんが、それでもいつか分かる日が来るだろうと前を向いて教会に行くことをあきらめない人には、ある時教会に来て良かった、教会にこんなに喜んでくる日が巡ってくるとは思ってもみなかったと感じられるように、復活のキリストは辛抱強く行く手に寄り添ってくださるのではないでしょうか。

今日、キリストは復活してくださり、「恐れ」と「喜び」を同時に感じるほどの迫力で私の行く手に確かにいてくださいます。決して私から離れず、何をすべきか、何を選ぶべきかを導いてくださいます。キリストと共に前を向いて歩くことを諦めないなら、復活のキリストは必ずそばにいて助けてくださるのです。

この力強い喜びを、ぜひ誰かに届けてあげましょう。信仰を保って生きることは素晴らしい、復活のキリストと一緒に過ごすことは素晴らしいと、一人でも多くの人に知らせることができるように、続けてミサの中で願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
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