主日の福音05/03/25
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
三度倒れ、磔にされる主を見よ

今日私たちは、私たちを救うお方が十字架で命を捧げたことを思い起こしています。断食の務めを果たしたり、午後3時の十字架の道行きに参加したりして、心の準備をしてきました。特に午後3時の十字架の道行きに参加された方は見てお分かりと思いますが、肩に食い込むほどの十字架を抱えて行列しましたので、立派な心の準備になったと思います。

イエス様がお亡くなりになったことで、私たちの救いに必要な犠牲・お捧げはすべて成し遂げられました。人間の過ちは悔い改めや償いで赦してもらえる罪も多いのでしょうが、大きな過ちを犯した時、私たち人間がどんな償いを行っても、実際は償いきれるものではないと思います。

イエス様の両脇に磔にされた二人は、殺人と強盗のかどで死刑を宣告された人でした。人の命をあやめたことを、人間はもともと償いきれるはずがないのです。ですが、その人が神のあわれみを信じ、神にすがるなら、神はかわりにご自身の命を捧げてくださいます。この大きな身代わりがなければ、戦争の過ちも、交通死亡事故の過ちも、償えるはずがないわけです。

神の御子は、最も惨めな姿で息を引き取りました。ですがそれは、最も惨めな人間までも救いたいという思いが、十字架上での最後につながったのだと思います。手を汚さず、一滴の血も流さず人間を滅びから救うのではなく、三度地面に倒され、最後の一滴まで血を流してくださったのです。これは、イエス様でしか為しえない業なのです。

中田神父は、今日の典礼の始めに、祭服のまま床にひれ伏しました。これは儀式書に記されている通りの振る舞いなのですが、こうして床にひれ伏しながら、イエス様が三度お倒れになったこと、人が人前で地面に這わされることの意味をあらためて考えました。救い主が三度地面に倒されます。

私たちの社会で、貴い人を誰が地面に這わせたりするでしょうか。それほどひどい仕打ちにも、イエス様は黙って従われたのです。すべては私たちの救いのために、倒されることが必要であれば従順にその苦しみを引き受けてくださるのです。

私は、この床にひれ伏す姿と、つい最近行われた司祭の叙階式の一コマが重なりました。司祭に叙階される人々は、儀式の途中祭壇の前で全身ひれ伏し、自分自身をすべて神に捧げますという決意を表します。私はその姿が、イエス様が人間の救いのために三度倒れ伏したことと、この聖金曜日の典礼の中で司祭がひれ伏すこと、その両方に重なったのです。

今から司祭になろうとするこの三名の方々は、こうして床に全身ひれ伏すことで、救いのために全身を投げ出す決意を表しているのだろう、神のためなら人前で地面に倒されることも恐れないという決意を表しているのだろうと、心を動かされました。十四年前には同じ姿で祭壇の前で全身ひれ伏したことを思い出しまして、私は今、人を神様に近づけるために、人々の前で地面に倒されることすら恐れずに神様にお仕えしているのだろうかとあらためて考えさせられました。

本来なら、三度お倒れになったイエス様のかわりに、私が這いつくばって神のあわれみを願う必要があるはずです、今は、イエス様が私たちすべてのためにお倒れくださり、十字架の釘を受けてくださっています。一人残らず、十字架に救われたことをしっかり心に刻み、十字架をあがめることにいたしましょう。自分の生活に生じるさまざまな十字架を、これからは逃げずに引き受ける決意も、あわせて願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
「復活徹夜祭」(マタイ28:1-10)
「復活の主日」(ヨハネ20:1-9)
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