主日の福音05/03/24
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
お互い、許し合うことは可能なのです

今日、聖木曜日に私たちは祭壇を囲み、主が弟子たちと一緒に「感謝の祭儀=ミサ聖祭」を制定し、弟子たちには司祭職を授けたことを記念しています。いろんな面を説教の中に取り上げることができるでしょうが、2005年の聖木曜日、私たちのこの教会の中で考えてみたいことを一つ取り上げてみたいと思います。

一つ、取り上げたいこと、それはこの説教のあとに行われる「洗足式」に現れている「兄弟愛」についてです。朗読箇所の中でイエス様が食事を中断してまでも弟子たちの足を洗って互いに愛し合うようにと諭してくださったことを、今日私たちもそっくり再現しようとしています。

イエス様は「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と仰いました。この、足を洗い合うことには、どんな意味が込められているのでしょうか。ただこの一点に絞って、今年の聖木曜日のメッセージを皆さんに語りかけたいと思います。

「足を洗う」。私たちのふだんの暮らしではあまり使わない言葉かも知れません。変に誤解される場合もあるかも知れません。私たちが結びつけるのは、悪の道からきっぱり縁を切るといった意味合いがあると思います。悪を離れ、まともな生き方に立ち帰る様子を思い浮かべることでしょう。

実際に、イエス様の暮らしていた場所ではもう少し違った意味合いがあったかも知れませんが、私たちが知っている意味をイエス様のなさったわざに当てはめても、私は十分意味が通じると思っています。お互いに、悪の道に見切りを付け、きれいさっぱり縁を切って、まともな暮らしに立ち帰る。互いにそのような暮らしに向けていきなさいと仰ったと考えても、十分意味は通じると思います。

さらに、イエス様がおられた地方での「清め」という意味や、主人の足を洗うことが僕の仕事であったことから自分を低くして仕えるという意味も込めて、あらためて「お互い、足を洗い合いましょう」とイエス様が招いていると考えて良いのではないでしょうか。

さらに、イエス様が弟子たちの足を洗うことで示したかったことは何でしょうか。これまで話してきたことは、「互いに足を洗い合いなさい」「いろんなことがあっても、互いに許し合いなさい」という勧めの意味合いがありました。私はこれに加えて、もう一つのことを付け加えて良いのではないかと思っています。それは、「互いに足を洗い合うことができるのですよ」「いろんなことがあっても、互いに許し合うことはできるのですよ」という勧めからもう一歩踏み込んだ意味も、イエスは弟子たちに示されたのではないでしょうか。

こういうことです。人間は時折馬が合わない人が出たりします。この人とこの人がはち合わせすると、必ずと言っていいほど噛みつき合うことになる。誰かが止めないと大変なことになる。それほどいがみ合いをしている人間同士とかグループ同士、そういったものが世の中にはあるのではないでしょうか。

イエスは人間同士の争いを見つめて、こう仰るのです。「互いに足を洗い合わなければならない」「互いに許し合わなければならない」と。さらにイエスは大胆に踏み込んできてくださるのではないでしょうか。つまり、「互いに足を洗い合うことは可能ですよ」「互いに許し合うことは可能ですよ」ということなのです。

本当に、互いに足を洗い合い、許し合うことは可能でしょうか。ある人とある人は、カトリック信者でありながらいがみ合っています。あるグループとあるグループもそうです。人間として、その人たちは絶対にどちらも折れる様子はありません。それでも、互いに足を洗い合い、許し合うことは可能なのでしょうか。

できるかできないか。それは、イエス様の模範からどれだけのことを学び取るかにかかっているのだと思います。イエス様はご自身模範を残して、互いに許し合うことを勧め、それはできるとみずから証明なさるのです。

なぜ足を洗う動作でどんなことがあっても許し合うことができると言えるのか。それは、前後の話の流れから説明が付くと思います。イエスは最後の晩餐を十二人の弟子が居る中で始めました。足を洗う時、イスカリオテのユダはまだその場所にいたのです。本当なら、許し難い人間の足を前にして、この裏切り者!と叫ぶこともできたのに、イエスは黙って十二人全員の足を洗ったのです。これは、互いに足を洗い合い、互いに許し合うことは可能なのですという何よりの証明なのではないでしょうか。

さらに、イエス様は先生として弟子の足を洗っただけではありません。朗読の中で次のような言葉が残されています。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」と仰っています(13章13節)。人間としては先生でしょうが、同時に神の子、救い主としても被造物に過ぎない人間の足に身をかがめ、足を洗い合うことは可能ですよ、許し合うことは可能ですよと仰っているのではないでしょうか。

神が人間の足に跪いて許し合うことを教えたのです。どうして人間同士が互いに跪いて許し合うことができないというのでしょうか。たとえ信者同士であってもあの人は絶対に許さないと言えるのでしょうか。神が人間の足を洗って許し合うことを教えているのに、人間同士、ちっぽけなものどうしてあの人を許せないと言うのは愚かなことではないのでしょうか。

今日、司祭は十二名の信徒の足を洗います。この姿から、私たちが互いに洗い流せないものはない、許し合うことのできないものなどないはずだということを、あらためて確かめたいと思います。イエス様ができると仰っているのに、私たちがそんなことできませんと言うのはまったく筋が通らないことを、目で見る動作を通して学ぶことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
「聖金曜日」(ヨハネ18:1-19:42)
「復活徹夜祭」(マタイ28:1-10)
「復活の主日」(ヨハネ20:1-9)
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