主日の福音05/03/20
受難の主日(マタイ27:11-54)
イエスは理解を超える働き方をされる

今日の朗読は、役割分担を取り入れて、ふだん以上に場面の雰囲気を味わうことができるように工夫しています。ついでの話なのですが、こうやって役割分担が可能なのであれば、ふだんから、たとえば放蕩息子の話などは、父親・弟・兄・僕たちなど、それぞれ役割分担をして朗読しても良さそうな気がしますが、どんなものでしょうか。

さて、今日は短い説教をするようにと儀式書にも明記されていますので、できるだけ簡潔に話そうと思っています。取り上げる要点として、まずはこの四旬節の始まりにどんな点を取り上げたかを思い返すことにしましょう。

私は、荒れ野での四十日にもわたる誘惑をイエス様が乗り越える場面から、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」の中から「神の子なら」という部分を取り上げたのですが、覚えておられるでしょうか。もう一度出てくるので、よく注意しましょうとあの時話したのでした。

そして今日(この受難の日曜日に、聖金曜日主の受難を先取りした典礼をおこなっているのですから、今日の朗読として取り上げている要点は、同時に聖金曜日の要点でもあるわけです)繰り返し、「神の子なら」という部分に焦点を当ててみたいと思います。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。

この言葉をイエスに浴びせかけた犯罪人の明らかな間違いは、「神の子なら」と投げかけながら、自分が「神の子とはこのような者を指しているのである」と分かっているつもりでいたことではないでしょうか。「神の子なら、十字架から降りてこのような死に方から逃れるはずだ」人間一般の物差しで考えれば、こうやって危険を避けるほうが、神のもとから来た者としての振る舞いにふさわしいのではないか。きっとそうだと、犯罪人含め、周囲を取り囲む人々の多くは考えたに違いありません。

ですが、神様のなさり方はしばしば人間の理解を超えています。釘付けにされた十字架から何も被害を受けなかったかのように降りてくることは、可能であったかも知れませんが人間の考えそうなことですし、神様のご計画ではありませんでした。むしろ、釘打たれたまま、息を引き取るというむごい最後の中で救いのわざを全うすることが神のご計画だったのです。

そしてこのようななさり方は、人間ではとうてい考えもつかないやり方でした。とうてい、人間には理解し得ない、むしろ理解を超えているからこそ、神のご計画として意味があったと言えるかも知れません。まさにこの「人間の理解を超える方法」を使って、神のご計画は完成されていくのです。

そうは言っても、人間の理解を超える方法で救いのわざを全うしていくありさまを、理解した人物がわずかではありますがいました。イエスのもとにとどまった愛する弟子がその一人でしょう。また、百人隊長もイエスが人間の理解を超える方法で救いを全うされたことを理解していたかも知れません。なぜなら、彼は「本当に、この人は神の子だった」と証言したからです。この百人隊長について、最後に少し触れておきたいと思います。

福音書を調べてみると、百人隊長は二度、福音書の中で登場します。一度は、百人隊長の僕が病気でひどく苦しんでいた時に、おいでになって僕を治していただきたいと懇願する場面です。百人隊長の深い信仰は、イエスの心を動かし、想像もできないようなやり方で僕の病気をいやしてくださったのでした。

この僕の病気を治していただいた場面と、十字架上の場面との二つの場面に百人隊長は登場するわけですが、おそらく両者は別人であったことでしょう。ですが、同じ身分に置かれていた人は、同じ職業同士で何らかのうわさ話を耳にしていたかも知れません。イエスは、人間の理解を超える仕方で業を行われると、噂に聞いていたとしても不思議ではありません。そのような中で、「苦しみの杯」(マタイ26・39参照)を決して逃れようとしなかった姿に、人間の理解を超える何かを感じ取ったのではないでしょうか。

今は、私たちもイエスのなさり方に深い信頼を寄せて見守ることにいたしましょう。復活の出来事を迎えるその日まで、イエスへの信頼を失わずについて行きたいですとの思いを、このミサを通して奉献することにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
「聖木曜日」(ヨハネ13:1-15)
「聖金曜日」(ヨハネ18:1-19:42)
「復活徹夜祭」(マタイ28:1-10)
「復活の主日」(ヨハネ20:1-9)
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