主日の福音05/03/13
四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)
主はすべての束縛を解いてくださる

私事で申し訳ありませんが、間もなく来る三月十七日は私が司祭に叙階していただいた日です。十七日を迎えると十三年間が満了したことになり、十四年目に突入することになります。十年目までは確かに一年一年という感じがありましたが、それからはあっという間だったような気がしております。

最近になってようやくある一つのこと、それも重大な一つのことに気付きました。それは、私は生涯にわたってこれからも日曜日の説教を準備し続けなければならないのだなあということです。何だか、気の遠くなる思いがしました。

単純に数字に置きかえますと、毎週の説教で私が準備する話は原稿用紙にして七枚から八枚です。仮に七枚としても年間三六五枚は書き続けている計算になります。十三年で四七四五枚書き続けてきたことになりますが、仮に六十歳まで書き続けるとなると、これから七六六五枚書き続ける必要があります。

中田神父にとってミサを捧げ、説教するということはおそらく一生涯変わらず続くことになります。もちろん、まだ十三年間続けたに過ぎないわけで、私の計算によるとまだ折り返しにも来ておりません。これからが長い長い道のりだと思っていますが、ここまで全体の三分の一を歩き通したと考えても、まだ何かが見えたという実感はないわけです。

何かが見えるというのは、いつ頃そうなるものなのでしょうか。私が始めて助任司祭としてお仕えした主任神父様は、「六十歳にならんと言えんこともあっとぞ」と私を諭してくださったことがありました。今でもその言葉はたいへん重みのある言葉として残っています。

もしそれが真実であれば、司祭が聖書の出来事を十分に味わえるようになるまでには、原稿用紙一二〇〇〇枚以上書き続け、考え続けなければならないことになります。イエス様の影を踏むまでに、これだけの努力が求められるのかなあという思いです。これでは頭が禿げても致し方ありません。

ただ、今週の福音朗読は、その道のりがたとえ果てしないものに見えても、途中途中での成果もあることを教えてくださいました。今までもそうでしたが、同じ箇所をあてがわれて説教しているのに、何か、新しい発見があるわけです。しかも、その発見はちょっとしたことの中に、僅かな気付きを通して与えられることがしばしばあるわけです。そのおかげで、司祭は説教し続けることができるのかも知れません。何年かに一回しか新しい発見がないのであれば、きっと挫折してしまうことでしょう。

今週の朗読から私に見えてきたことは、死んだラザロにイエス様がなさった一つひとつの業には、思いがけない意味が隠されていたのだということです。三つ取り上げますが、一つは「その石を取りのけなさい」と命じたこと、二つ目は「ラザロ、出てきなさい」と命じたこと、三つ目はぐるぐるまきにしていた覆いを「ほどいてやって、行かせなさい」と命じたことです。

私たちはある場面での一つの動作が、特別な意味を持つことがあることを知っています。たとえば会社の中で上役が部下の肩を叩くと言えば、それは部下に退職を促すしぐさであると言われます。もともとの意味は、肩を叩いて相手の緊張をほぐし、言いにくいこと・難しいことを伝える、頼むということなのだそうです。

こんな世の中の光景を理解していながら、どうして私は十三年経ってもイエスのこんなしぐさが理解できなかったのだろうかと思うのです。あんまりぼおっとした司祭であれば、うかうかしていると私のほうがイエス様から肩を叩かれかねません。絞っても絞っても何も出て来ませんと言いたい時でも、何か新しい発見をすることができる。福音記者によって書かれたイエスの言葉はどこまでも奥が深いのだとつくづく感じました。

つまりこういうことです。イエスが「その石を取りのけなさい」と仰ったのは、死んだラザロの遺体を見てみたいから仰ったわけではないのです。人間が決して逃れることのできない苦しみと絶望の代表である「死」に縛られているラザロを、イエス様はたった今解放するために、「その石を取りのけなさい」と仰ったのです。

墓穴をふさいでいる大きな石、それは、中にいる人が死んでしまったことをはっきり示すしるしです。その「死の象徴」を取りのけよ、私は人間を縛っている苦しみから、今あなたを解き放ちますと、はっきり仰ってくださったということなのです。

当然、私たちには不可能な業です。私たちが墓の石を開いても、墓の中を確かめる程度のことしかできませんが、イエスは墓を開いて、誰も避けることのできない「死」から私たちを解き放ち、永遠の命に導くことができるのです。そのことをはっきり示すために、「その石を取りのけなさい」と仰るのです。

また、イエスは死んだラザロに、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫びます。私は大声で叫ぶ意味も考えずに今まで十三年間も説教してきたのですが、大声で叫ぶからには、それは間違いなく結果を伴うということなのではないでしょうか。「出て来なさい」と言ったのに出て来ないでは何の意味もありませんから、間違いなく、ご自分が死者を生き返らせる力ある者、神の子であることをここで宣言しているわけです。

ご自分の言葉に何らの偽りもないこと、「出て来なさい」と言えば、たとえその人が死の世界に縛られていたとしても、よみがえらせることができる。これは、ご自分が神であることを高らかに宣言しているのと何ら変わりありません。そしてその言葉の通りに、結果が伴うことになります。

イエスは最後に、「ほどいてやって、行かせなさい」と仰いました。「手と足を布で巻かれ」、「顔は覆いで包まれていた」ラザロは、疑いもなく「死の暗闇」に置かれていたのです。すべての人が恐れ、嫌っている世界から、死が支配しない世界へ、命の源である神がすべてを支配している世界へと人間を向かわせます。死の束縛から、「ほどいてやって、行かせてくださる」のです。それができるのは神の子イエス・キリストだた一人なのです。

本来なら、もうこれだけで十分なはずです。私たちがイエスを神の子と認め、証をするために、これ以上のことは必要ないはずなのです。けれどもイエス様は、このあとご自分の命をなげうって救いのわざを完成し、そしてご自身復活なさいます。死の鎖を、完全に断ち切り、ご自分を信じるなら死んでも生きることを揺るぎないものとしてくださるのです。

来週一週間は、このことを確かに見届ける受難の一週間・復活に至る一週間です。今日ラザロを死の束縛からほどいてくださったイエスが苦しみを経て復活します。大切な一週間を、実りあるものとしていけるように、続けてミサの中で祈っていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
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