主日の福音05/03/06
四旬節第四主日(ヨハネ9:1-41)
人はイエスと出会って変えられます

だんだん日差しも強くなり、暖かい日も一週間のうち何日かは混じるようになってきました。暖かくなると人も生き物も動き出すわけで、今お借りしている家から窓をちょっと見ると、教会を見に行く人が確実に増えているのが分かります。ですが私はお節介ではありませんので、観光客が見えたからといって飛んで行って「いらっしゃいませ〜教会開けますからさあ見てください」と言ったりはしません。

それでも執念深い観光客もいらっしゃるわけで、携帯電話で教会の番号に電話をかけている人もいます。「もしもし、沖ノ島天主堂さんですか?教会を開けていただくことはできませんか」電話までかけてきた執念に免じて扉を開けに行きます。

それから戻ってくると、また電話がかかります。「あのー、遠方から来たのですが、開けてはもらえないでしょうねぇ」その携帯電話をかけている人は、たまたま部屋の窓越しにも見えていました。今戻ったばかりのところにまた開けに行くのかと思うと気が滅入るのですが、まあ仕方あるまいと思って開けに行きます。

戻ってきて机の前にようやく戻ったところでまた電話です。「あのー、平日は中に入ることはできないのでしょうか」。冗談も休み休み言えと言いたいところですが、司祭館が完成した暁には、私は教会の後ろに机を持っていって、勉強はいつも教会の中でする必要があるなあと思いました。あんまりやぐらしいので、これからは教会の中央玄関の部分に机を置いて入ってきた人に絵はがきでも販売して暮らそうと思っております。

日曜日の福音朗読が、先週あたりからものすごく長くなっております。その中で何か一つを取り上げて、皆さんに持ち帰ってもらうというのもなかなか簡単ではありません。探し出す範囲が広いわけですから、朗読箇所の中でいろいろなものが見えてきます。それでもあえて何を取り上げてまとめたらよいか、ここ数週間は与えられた朗読箇所と格闘しているようなものです。

今日、目の見えない人がイエス様によっていやしていただきました。土をこねて目に塗り、池に行って洗ってきなさいと仰います。私が当の本人だったら、まずはこねた土なんか目に入れて欲しくないなあと思うわけです。洗ってきなさいと言う前に、洗いに行かなければならなくなるようなことをしないでくださいと言いたくなります。いかに信仰が足りないかという明らかなしるしです。

ところが実際の目の見えないこの人は、自分に施されたことをはっきり分かっていたようです。彼は事情を調べられる時に「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」(9章15節)と答えています。いったいこのしぐさは、何を意味していたのでしょうか。

聖書を調べる限り、土をこねたという動作は、ここしか見あたりません。旧約聖書の中には旧約の民がエジプトで強制労働をさせられた時に、粘土をこねて煉瓦を作った記録がありますが、もちろんこことは何の関係もありません。ですから、比べる箇所がないのであれば、特別な意味を探し出すこともできないように思えます。イエス様の単なる思いつきだったのでしょうか。

一つだけ、思い当たることがあります。人間は、神様に造られる時に、土の塵で形作られ、そこに命の息を神が吹き込むと人は生きるものとなったとあります。あるいはこの、土でできた生き物に過ぎないということを、あらためて読者に知らせようとして、このようなしぐさを行われたのかも知れません。

あなたは土の塵と何ら変わりない存在なのだけれども、イエスと出会ったその時に、この土の塵からすっかり変えられたのだ。まったく見えなかったのに、すべてが見える者となり、信じることのできなかった者から、信じることのできる者へと変身したのだとイエス様は伝えたかったのではないでしょうか。

つまり、イエス様に出会った時、人間は変わるということです。今日の朗読に登場する「生まれつき目の見えない人」は「目が見えるように」なったのですが、誰であれ、イエス様と出会った人は、今までとはすっかり生活が変わるのです。

ある意味、「目が見えるようになる」というのは、体の欠けていたところが元に戻ったということですから、何かが増えたわけではありません。もしかしたら、心の目が開くということのほうが、体の機能を取り戻すことよりも何倍も重い意味があるのではないでしょうか。

視力を取り戻したこの人は、「あなたは人の子を信じるか」と言われて、「主よ、信じます」ときっぱりと答えたのです。ところが律法の専門家であるファリサイ派の人々は、奇跡を目にしていながら信じることができなかった、心に何の変化も起こらなかったのです。イエス様と出会ったのに、良い方に変わっていけない人は、何と不幸なことでしょうか。

なかなか変わらないものが変わり始める時、私は神様が確かにその場に働いていると受け止めるようにしています。この前の木曜日、これは神様が動いてくれたので変わったに違いないという体験をしました。

実は中田神父は、司祭館の落成に合わせて説教集を出すことにしています。ここ二年ほどの説教を、文庫本二冊にまとめてみました。近いうちに刷り上がると思いますので、司祭館建設のために尽力してくださった皆さんには各家庭漏れなく一冊ずつお配りいたします。

文庫本ができあがることは間違いないのですが、この文庫本を、以前にお世話になったある教会で紹介してもらって販売してもらおうと考えて、今からおよそ一ヶ月前に手紙を出したのです。「そちらでのカトリック書籍販売の日に、わたしの文庫本も隅に置かせてもらい、販売していただけないものでしょうか」そんな内容の手紙です。

手紙を出したのはよかったのですが、何日過ぎても返事が来ません。しまいには手紙を出したことすら忘れていたのですが、ついこの前の木曜日に、缶ビールを飲んだ勢いもあったのでしょう。返事が来ないことを一人でぶつぶつ文句を言っていたのです。「協力できるか、協力できないか。たったそれだけの返事くらい一週間もあれば返せそうなものなのに、いったいいつまで気を揉ませるつもりか」。

腹一杯文句を言っていたその日、ちょうどその時電話がかかってきたのです。夜の九時半でした。普通この時間は、よほど緊急の用事でもなければ電話はかかってきません。誰だろうと思って電話を取ったら、何とその教会の広報部員の方からでした。「神父さんの文庫本、書籍販売しますのでとりあえず百冊送ってください」。

神様はいらっしゃると思いました。私がどれほど気を揉んでも事態はいっこうに変わる様子もなかったのに、文句言っているちょうどその時に神様は動いてくださり、広報部員の心を動かしてくださったのだと思います。あの規模の教会で引き受けていただけるということは、これは鬼に金棒、大船に乗った気持ちでいいと思います。人の心が大きく変わるのは、人間のちっぽけな力によるのではなくて、神と出会った時、神が人間のために働き始めた時なのだと痛感しました。

だれが音頭を取っても絶対に変わるはずがないと思えるような事態さえ、変わることができるのです。それは人間の力ではありません。イエスがそこにおいでになって変えるのです。イエスが変えようとお望みになった時、変わり始めるのです。この教会がもし変わったとすれば、それはこの教会に確かにイエス様が留まってくださり、力強く導いてくださっている証拠だと思います。

今の教会の雰囲気になって、「神様を信じ続けること、信仰を捨てないことは報われる」と思えるようになった人もいるでしょう。それは、イエスがあなたを今変えてくださっているということなのです。信仰を大事にする人間にすっかり変えようとしている今を、私たちは逃してはいけません。癒しを受けた人と一緒に私たちも「イエス様、ようやくあなたに本気でついて行く気になれました。主よ、信じます」とミサの中で答えることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
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