主日の福音05/02/27
四旬節第三主日(ヨハネ4:5-42))
現代にイエス様がくださった泉は聖体

皆さんは、古代の植物の種を蒔いて古代の植物を現代によみがえらせるという話を聞いたことがないでしょうか。調べてみると、のちにハス博士と呼ばれるようになる大賀一郎という植物学者は、古代のハスの種子から立派に花を咲かせたことが知られています。

この植物学者は、1951年に千葉県にある東大グラウンドの地下7メートル、約2000年前の地層(泥炭層)からハスの種子を見つけ、1957年(昭和32年)遂に発芽させることに成功したのだそうです。神様が植物の種に埋め込んでくださった神秘を考えないではいられません。

ところで、植物の話を借りなくても、私は教会の中にも実に驚くべき生命力があると思っています。たとえは悪いかも知れませんが、カトリック信者はいったん神に受け入れられた者であることを十中八九忘れないものです。信仰の夏休みが長い人もいるかも知れませんが、それでもいつかは教会に戻ってきます。私はそうした人を見るたびに、驚くべき生命力だなあと思うわけです。

今日、イエス様は井戸のそばでサマリア人の女性に「生きた水」について語りかけています。語りかける中でも特に力に満ちた言葉は次の箇所です。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節参照)。

まずは当時の事情を十分押さえてから、私たちが身近に出会うカトリック信者がどうして信仰を失わずにいられるのか、現代のカトリック信者にとって「永遠の命に至る水」となっているものは何か、はっきりと掴むことにしましょう。

中田神父はチャンスを与えられて、西暦二千年に、当時の島本大司教様のもと、三十人ほどの青年たちとイスラエル巡礼に行ったことがあります。イスラエル巡礼に行かなければ絶対に分からないことですが、イスラエルは非常に乾燥した国です。何もしなくてもどんどん体の中から水分が奪われていきます。夏場、日中の温度も想像を超えていて、水筒(ペットボトル)を持たずに外をウロウロすることは命取りです。私たち巡礼者は、毎日牛乳瓶で十本分くらいの水を飲んで水分を補給していました。そうしないと、汗でどんどん水分を奪われて、冗談抜きで倒れてしまうのです。

こんな土地に住めば、水の大切さはとことん思い知らされることになります。女性の水汲みは、ちょっと言えば命を繋ぐ重大な仕事でもあるし、井戸は深く、限られた場所にしかないのですから、過酷な労働でもあったのだと思います(11節参照)。。

こんな暮らしの中で、イエス様が「わたしが与える水を飲めば、決して渇くことがない」と仰るのですから、それは耳寄りな話どころではなくて、喉から手が出るほど欲しくなる話だったのではないでしょうか。サマリア人の女性が、イエスの伝えたいことを十分に理解していなかったとしても、日々苦労させられている飲み水に例えて話をしてくださったので、おおいに惹きつけられただろうと思います。

本当はここからが大切なのです。イエスが私たちに与えてくださるものは、私たちの中で決して尽きることのない泉になって留まるのです。サマリア人の女性の中にも、イエスが語りかけた言葉が泉となって留まり、彼女は以後決して希望を失うことはありませんでした。救いの希望が、尽きない泉としてこんこんとわき出すようになったのです。このサマリア人の女性からイエスの話を聞いた人々も、のちに信仰を持ち、尽きない泉が一人ひとりの中でわき出したのです。

ところで、今の時代のカトリック信者にとって、イエスが注いでくださる尽きない泉はいつ与えられるのでしょうか。しばらく(それは人によって五年かも知れないし、二十年、それ以上かも知れませんが)教会から遠ざかっていてもある時戻ってくる。信仰的にはどれだけ死んだような暮らしをしていても、その人の中の泉は実は枯れることはありません。こんな素晴らしい泉は、私たち今の時代のカトリック信者は、いつ注がれているのでしょうか。

私は、考え方として二つあるのではないかなあ、と思っています。二つと言っても、両者は根本的には同じイエスから注がれるもので、決して分かつことのできないものだと思っています。それは、洗礼と聖体です。

カトリック信者はどこまではぐれても信者を忘れないと言いましたが、根本的にそれは洗礼の恵みが尽きない泉のような恵みであるということだと思います。どんなにやんちゃしている信者であっても、神の恵みは神が注いだ恵みであるが故に枯れないのです。

熱心さや忠実さは、ある時枯れるかも知れません。それは人間の持ち物だからです。けれども神が注いでくださった洗礼の恵みは、私の熱心さや忠実さが完全に枯れてしまったとしても、決して失われたり損なわれたりはしないのです。

もう一つ、カトリック信者が信仰を捨てない大きな支えは、聖体の秘跡、御聖体の恵みではないかなあと思います。洗礼の恵みは一度限りのものですし、一定の年齢になって受けた人でなければ、実感さえもないに違いありません。ですが聖体拝領は、聖体がどのようなものであるかを理解できる年齢になってから授けられています。

だから、幼いながらも心に堅く刻みつけられていて、この思い出が後々までカトリック信者の心の中の尽きない泉として恵みを溢れさせるのではないでしょうか。私はどちらかというと、現代のカトリック信者にとって尽きない命の泉となっているものは、御聖体なのではないかとつくづく感じます。

昨年十月から今年の十月まで、教皇ヨハネパウロ二世は「聖体の年」を宣言しています。現代にあって尽きない命の泉になっている聖体を、私たちはあらためて見直し、敬虔に拝領することにしたいと思います。聖体拝領から何年も何十年も離れていてもいつかは聖体拝領をできる状態に戻りたいと立ち返ってきます。それ程御聖体に秘められた恵みは大きいのだと思います。

もちろん、立ち返って来た人を私たちは喜んで迎えるわけですが、長く聖体拝領をしなかった人は、まずはゆるしの秘跡を受けて、魂が洗礼の恵みを取り戻して命の水で満たされるように配慮しなければなりません。告白をすれば、今まで年に一度聖体拝領をしなかったことが愚かなことだったと気が付くでしょう。荒れ果てたままの心にしていた自分を改めようと思うでしょう。

こうして、誰もが尽きない泉に潤されて日々信仰のうちに暮らすなら、もっと多くの人が、カトリックの本当の良さに心を開くのではないでしょうか。「腐っても鯛」という言葉がありますが、「腐っても俺は信者だぞ」と空威張りするのではなく、御聖体につねに養われて魂の泉からこんこんと命の水が溢れ続ける信者として社会の中で生きていく決心を、今日のミサの中で立てることにいたしましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
四旬節第四主日
(ヨハネ9:1-41)
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