主日の福音05/02/20
四旬節第2主日(マタイ17:1-9)
イエス様は二度近づいてくださいます

先週は前任地の太田尾小教区にミサを捧げに行き、司祭館建設の寄付の依頼をお願いしてきました。ついこの前までいっしょに苦労し、困難な場面もいっしょに乗り越えてくださっただけに、お願い事で出向くのは心苦しかったのですが、待っていた皆さんは快く迎えてくださいました。

「私たちから先に動くわけにはいかないので、どうぞ一声かけに来てください。そうすれば私たちも動きやすいです」。一月に長崎で太田尾教会の信徒にお会いした時にこう言っていただき、おおいに勇気づけられました。こうしてまた、戻ってまいりましたので、さらに気を引き締めて司祭館の完成のために力を注ぎたいと思います。

実は司祭館の建設は、信徒の力が一つになって大きく実を結んだ証しにもなると思っています。司祭館そのものは見える形ですが、この見える建物を完成させるのは、一つに集められた信徒の皆さんの教会を思う気持ちだと思っています。皆さんの信仰心を確かな形にするという意味でも、残り一ヶ月ほど、関係者の皆さんには続けて尽力いただきたいと思っております。

さて今日の福音には、先週中田神父が取り上げた要点が、もう一度繰り返されましたので、引き続き考えてみたいと思います。先週の福音でも取り上げたのですが、福音書を読み続ける中で二度三度と繰り返されることばは、大切にしたいものです。

先週の福音を例に挙げると、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4章3節)の「神の子なら」という箇所でした。この言葉は、のちに十字架に架けられたイエス様の周りを囲む群衆が、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27・40参照)という形で繰り返されていきます。

あえて繰り返されていると思われることばは、よく味わう必要があります。少なくとも、一度目はその意味を取り逃がしたとしても、二度目に出会う時にはしっかり心にとどめたいものです。そして同じように著者のマタイがあえて二度繰り返し使う言葉が、今週も用いられています。それは、「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた」(17・7)の「イエスが近づいた」という言葉です。

一見すると、「ごくありふれた姿」に見えるかも知れません。イエス様が近づいて声をかける、いくらでもありそうなことのようにも思えます。ですがよくよく調べてみると、人々がイエス様に近づく様子はたくさん紹介されていますが、イエスみずからある人に近づいて何かをなさる、何かを語るというのはごくごくわずかなのです。

論より証拠、今年朗読の中心となるマタイ福音書で確かめてみましょう。弟子たちがイエスに近づいたとか、律法学者たちがイエスに近寄ってきたとか、悩みを抱えている人が近寄ってきたという箇所は、マタイ福音書全体の中で十八回見られます。

それぞれ、イエス様は求めに応じて必要なお世話をしてくださるわけですが、イエスみずから近づいて何かをなさったというのは、今日の「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた」という箇所と、復活したイエスが弟子たちに近寄って全世界に福音を伝えよと指示をする、この二箇所しかないのです。

このようにはっきり差が出るということは、著者のマタイが、明らかに場面を使い分けている、「イエスが近づいてこられる」この姿は取り分けて大切だから、しっかり心に刻みなさい、イエスみずから近づいて来られた時の、どんな細かなことも見落とさないようにしなさいと呼びかけているのではないでしょうか。

イエスが近づいてこられた姿から何を学ぶかは今日の説教の結びとしてきちんとまとめますが、何かを発見するためには小さなことにも目を配ることから始まると思います。細かいことにも気を配るようになると、ものを見る目が格段に進歩します。

ついこの前も、こんなことがありました。ある人が現在仮住まいしている田村邸に中田神父を訪ねてきたのですが、入り口の門扉を開けることができずに外から神父様〜神父様〜と叫んでいました。実は田村邸の門扉を開けきれずに右往左往する人は一人や二人ではありませんで、この三ヶ月のあいだに少なくとも五人は、門扉を開けきれずに開けて〜開けて〜と助けを呼び求めてきました。

開いてみれば何ともないのですが、私はその様子が面白いものですから、どうかした時は「お母さん、それはちょっとお祈りしてからでないと開かんとよ」と言ったりいろいろして楽しんでおります。

問題はその先なのです。ここからが細かい観察が必要で、細かい観察があればこそ話のネタになるわけですが、ある人は台所の脇まで回ってきて、「賄いさ〜ん。玄関の開かんとさね〜」と声をかけているのです。玄関を開けきれなかった人が、一体どうやって台所の脇で坂田さんを呼ぶのか、私にはとても理解できません。ちなみに勝手口も同じ形式の門扉なのですが、玄関が開けられずに同じ形の勝手口はすり抜けて、玄関を開けて〜と仰るわけです。これは私にとっては七不思議です。

福音の招きにも、私たちは細かいことにも気を配っていつも新鮮な発見を受け取りたいものです。イエス様は今日の朗読で輝く姿に驚いている三人の弟子たちに近づき、「起きなさい。恐れることはない」(7節)と仰いました。これは、何を意味しているのでしょうか。

ペトロは、太陽のように輝くイエスの顔を見ました。その神々しさから、イエスが天に属するお方、神の子であると確信したのだと思います。そして、幼い頃から会堂で旧約聖書を学んできた当時の人々は、神の顔を直接見ると、その人は死んでしまうと思っていたのです(創世記32・31、士師記6・22参照)。

ペトロはとんでもないものを見てしまった、これはひょっとしたら死ぬかも知れないと思ったのではないでしょうか。「仮小屋を三つ建てましょう」と言いますが、他の福音書によれば、この時ペトロは自分でも何を言っているのか分からなかったとあります(ルカ9・33参照)。死ぬかも知れないと思った挙げ句に何を言っているのか分からなくなるということは、おおいにあり得ることです。

その様子を知って、イエスはペトロに近づいて、二つのことを言ったのかも知れません。「起きなさい」「恐れることはない」。起きるとは、死んで横になることと正反対の姿です。恐れもまたしに結びつくもので、恐れるなとは、あなたはこれからも生きていくのだという力強い声を意味しているのではないでしょうか。

この、イエス様の態度は私たちにも同じく向けられています。今日、イエス様は恐れている私に近づいてくださいます。ある人は死を覚悟するまでに、恐れています。その私に、イエス様は近づき、起きあがって恐れず生きていくようにと招くのです。

今日まで、右を見ても左を見ても生きていく望みが与えられなかったかも知れません。いろんなものにしがみつきましたが、そのどれもが私の生きる望みとなってくれなかったかも知れません。つかまろうとしたものが逃げていったかも知れません。

イエスは違います。みずから私に近づいてくださいます。そして、恐れを取り除いてくださるのです。私たちは教会の季節としては四旬節、犠牲を捧げる季節を迎えています。私に近づいてくださるイエス様に最後の望みを託して、困難に満ちあふれているこの世の暮らしを耐え抜くこともまた、ある意味四旬節の犠牲なのかも知れません。

今困難を耐え忍んでいる意味、それはこの世にどっぷり浸かっていては見えなかったかも知れませんが、ここにこうして集まり、礼拝を捧げる中で、イエス様があなたに近づいてこられ、苦しみの意味を教えてくださるのではないでしょうか。

今日近づいてこられたイエス様は、復活して再び近寄って声をかけてくださいます。私たちが立ち直って希望のうちに生きることができるようになったその時、イエスはもう一度近づいてこられ、私たちを宣教に送ってくださることでしょう。

今は、恐れるなと仰るイエス様に信頼を寄せて、この日々の暮らしをおささげする心を学ぶことにいたしましょう。どんな中にあっても近づいてこられるイエスに、このミサの礼拝の中で気付くことができるように願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-42)
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