主日の福音05/02/06
年間第5主日(マタイ5:13-16)
あなたの中のキリストを輝かせていますか

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さて、中田神父は必要に迫られてたくさんの人の名前を覚えます。何よりもまず赴任している教会の方々の名前をできるだけ覚えます。それは当然のことですが、司祭に転勤は付き物ですから、転勤すれば行った先の教会の方々の名前を覚える必要があります。そこは切り替えも必要です。

とは言え、これまでにお世話になった教会の方々の名前をきれいさっぱり忘れるかというとそうでもなくて、けっこうに名前は覚えているものです。懐かしい人から電話がかかってきてその人の名前をぱっと答えたり、思いがけず訪ねてきてくれた時に名前を返したりすると、相手の方も喜んでくれます。

ところが、中にはどうしても思い出せない人もいます。思い出せない事情は二通りです。一つは関わりが少なかった人です。五年六年いるうちに一言二言しか話さなかった方の場合は、どうしても思い出せないこともあります。これは致し方ないかも知れません。

あんなに教会のために働いてくれた人なのに、どうしても名前が出てこない。悲しいことですが、「おー懐かしかねぇ。その後役員は続けてるの?あそう。子どもさんも大きくなっただろうねぇ。ヘェ。もう大学生かぁ。奥さんは婦人会の役を続けてる。よく頑張るねぇ・・・。」これだけ話が弾んでいるのに、「この人の名前、誰やったかなあ・・・」と心の中で思っていたりするのです。教会の役員、教会組織の中心部にいた人であっても、どうしても名前を思い出せないことがあるのです。

何がそうさせているのか。私もいろいろ考えるのですが、どんなに理由を考えても納得がいきません。「お〜い、ちょっと相談があるんだけど」と、いつも「お〜い」呼ばわりしていたのであれば、思い出せないということもあるでしょう。ですが、その人を名前で呼ばずに「お〜い」で済ませていたつもりはありません。

あるいは、その人の名前があまりにも珍しい名前で覚えられなかったとか、反対にどこにでもある名前で紛れてしまったとか、そのどちらにも当てはまりません。私の頭が悪いと言えばそれまでですが、どうして思い出せないのか、納得できないのです。

ですが、今週の福音朗読を繰り返し読むうちに、少し考え方を変えてみようと思うようになりました。名前を思い出せないのは、私の頭のせいもあるでしょうが、もう一つ、相手の方が、努めて自分を後ろに隠して奉仕してくれたからではないだろうかと思うようになったのです。なるべく自分の名前が表に出ないように、むしろ自分の中のキリストが光り輝くように振る舞っていたせいではないだろうか。そう思うようになったのです。

頻繁に写真を撮っていると経験することですが、太陽を真正面にして写真を撮ろうとすると、太陽があまりにも眩しいので人間が真っ黒になる、被写体が何も見えなくなるということがあります。その人がどんなに色白でも、真っ白い服を着ていても、その人以上に光が眩しいので、何も映りません。実はこれと同じことが、ある人の中で起こっているのではないかと思うようになったのです。

こういうことです。その人の中に光が保たれています。この光を人に向けて輝かせる時、見る人のほうからは眩しい光だけが届いて、その人の姿は隠れてしまうということです。どれだけ大きな働きをする人であっても、どれほど親しく関わった人であっても、その人は心にある光を輝かせるので、光だけが目に焼き付き、その人の顔も、姿も映らないのです。そんな働き方を黙々となさるなら、強烈な働きぶりを発揮していても、名前を残さないことがあるのではないでしょうか。

「あなたがたは世の光である」「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。今日イエス様は、私たちキリスト信者の目指す場所を示してくれたのだと思います。あなたがたの光を人々の前に輝かすこと。これが、私たちキリスト信者の目指す生き方だというのです。

私たちを振り返ってみましょう。私たちは本当に「世の光」でしょうか。人々の前に輝かせるような何かを、本当に持ち合わせているでしょうか。おそらく客観的に見る時、大きな声で世の光ですと言い難いというのが正直なところではないでしょうか。それなのになぜ、イエス様は信じる人すべてに「あなたがたは世の光」であると仰るのでしょうか。

理由はただ一つです。私がこの世を照らす光なのではないからです。むしろ私の中に、「世の光キリスト」が留まっておられるのです。キリストを証しする時、その時のみ私たちは世に対して光となりうるということなのです。人間に過ぎない私たちが、世に対して眩しい光を放つためには、私の中に留まるキリストを信じていると証しするべきなのです。

先に話した「どうしても名前を思い出せない人」。私自身はその人に対して申し訳ないという思いでいっぱいです。ですが、見方を変えるとその人は世の光キリストを輝かせ続けた人なのです。顔も名前も遮られてしまうほどに、キリストを輝かせる仕事を忠実にこなしてくれた人なのだと思います。こんな働きぶりを示してくれる人が何人かでもいれば、その教会は全体が明るいと思いますし、社会に対して輝く光であり続けるのだと思います。

今日の朗読箇所はさまざまな言い方で輝く光を例えています。「山の上にある町」「台の上にともされたともし火」。果たして一人の人間が、「山の上にある町」になり代わることができるでしょうか。家中のものすべてを照らすともし火となりうるのでしょうか。

一人の人間にはできないことですが、信仰を持つ私たちには可能なのだと思います。信じてやまないキリストを証しする時、その時私たちは一人残らず「山の上にある町」「燭台の上にともされたともし火」となることができるのではないでしょうか。

信じる私たちすべてに通じる光キリストを証しする時、私たちは社会に対して強烈な光を放つことになります。もしかすると、個人の名前は忘れられ、記憶の隅に追いやられるかも知れません。たとえそうなったとしても、その姿勢は「世の光」であり、教会を力強く前に推し進める源となるのです。

これまでに、うっかり名前を思い出せなくなってしまった方々に私は心からお詫び申し上げます。と同時に、そうした方々は輝く光キリストを証しし続けたので、その輝きがあまりに眩しかったので名前が後ろに回ってしまったのだと私が証言します。

私の言葉では頼りないかも知れませんが、名前を忘れられることすらまったく気に留めずに働いておられるあの人この人の働きぶりは、世に対する光として十分です。こうした働き手がいる限り、これからも新しい人がキリストを知るようになるでしょう。天の父をあがめ、信仰を同じくする人が続くでしょう。これは、限られた誰かに託された務めなのではなくて、キリストという光を持つ信者一人ひとりに期待されていることなのだと思います。

私たちが、キリストを信じていると態度や言葉で表すなら、世に対して光を輝かすことができます。どんな人の前でも輝く光であるキリストを頂いているのだと心して、今週一週間を過ごすことにいたしましょう。
‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
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