主日の福音05/01/30
年間第4主日(マタイ5:1-12a)
イエスに倣っていつも幸せを語ろう

今週の説教に入るに当たって、生きているあいだにこの言葉は決して言わないだろうなあという言葉を考えてみました。一つだけ紹介すると、私が「夢彩都」とか「浜の町」の商店に行って、「手を挙げろ」とは、たとえ何回生まれ変わっても言う機会はないだろうなあと思っています。

さすがに「手を挙げろ」は言ったことがないのですが、「泥棒!」という言葉は言ったことがあります。あまり上品な言葉ではありませんが、つい思い余って言ってしまいました。私がこちらに赴任する前の教会にいた時のことです。

こんな場面でした。その教会には、ある年の台風被害以前に、教会の歴史をつづった掲示板が設置されていました。掲示板は台風の被害を受けて壊れ、設置した役場に引き取られたままなのだということでした。「いつの話ですか」と尋ねたところ、もう一年以上前の台風で、それっきりですと仰います。

それはもとの状態に直してもらわないといけない。いつになったら設置してくれるのかと聞いても、教会役員からはきちんとした返事は返ってきませんでした。そこで役場の人が司祭館を訪ねてきたものですから、これ幸いと思いまして、「掲示板はいつ直してくれるのですか」と尋ねたのです。役場のほうもはっきりした返事をもらえません。予算の関係があるので、課長クラスの人では返事に困ったのでしょう。

そこでわたしがきっぱり言ったのです。「あのねぇ。掲示板を町の観光課で預かっていますと言われたけれども、預かるというのは、どれくらいの時間を指して預かると言うんですか?預かるというのは、一週間とか十日とか、そういうことでしょう。一年は預かっているとは言いません。それは泥棒じゃないですか。早く返してください」と言ってしまったんですねぇ。

何と言ったらいいのでしょうか。教会に設置されたものを早く元に戻したいという熱意が高じて、あんなことを言ってしまったのだと思います。結果どうなったかと言いますと、すぐに町の予算を120万つけてもらいまして、次の週からさっそく工事が始まりました。あとで考えると言い過ぎたかなあと反省しています。おかげで平成十年八月と、私が赴任しているあいだに掲示板が設置されたことが文章に残りました。

「泥棒」という言葉は、もう二度と言うこともないでしょう。「うそつき」はもう言ってしまったので、私にとってのキツイ言葉はこの人生の中でほぼ言い終わったと思います。これとは反対に、私はある種の言葉について、いったい何回くらい人に語りかけることができるだろうかと考えます。それは、「あなたは幸せです」という言葉です。

今日、イエス様は山に登って幸せを語ってくださいました。「心の貧しい人々は、幸いである・・・悲しむ人々は、幸いである・・・柔和な人々は、幸いである」。幸いですという言葉は、イエス様が生涯にわたって語り続けた言葉と言ってよいでしょう。

ある時は「安心しなさい」という言葉であり、またある時は「あなたの罪は赦された」という言葉となって、イエス様は人々に幸いを語り続けました。あなたは幸せですとイエス様が仰る時、そこにはいっさい偽りがありません。人間は慰めのつもりで「あなたは幸せなうちよ」とか、「私に比べたら幸せなほうよ」とか言ったりしますが、そんな気休めはイエス様の中にはいっさい見られないのです。イエス様は断言して、あなたは幸せですと仰るのです。

イエス様に幸せですと言われた人々は、本当に幸せを感じる人々でしょうか。「心の貧しい人々は、幸いである・・・悲しむ人々は、幸いである・・・柔和な人々は、幸いである」。ちょっと待ってと、言いたくなるような中にある人に、イエス様は幸せですと仰っているような気がします。

理解しにくいイエス様の宣言は続きます。「義のために迫害される人々は幸いである・・・わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」。私たちがふだん考えている幸せは、安定した暮らし、贅沢ではなくても、生活に事欠かないくらいの経済状態にあること、周囲の人に恵まれることなどではないでしょうか。そこからすると、イエス様が仰る幸せは、不幸せと感じるものもあるのです。

困難と思われる場所に、イエス様は幸いであると語りかけました。困難を前にしている人にあなたは幸せですと言うためには、よほどの覚悟がなければ言えないと思います。まずそれはイエス様に当てはまることで、確信があるから、すべての人の幸せに責任を持つから、信頼を寄せなさいと招いているのではないでしょうか。

なかなか、私たちは困難にある人に幸せを語ることができません。幸せに見える人にしか、幸せを語れない小さな者です。けれども、キリストを信じているなら、私たちは主に倣って人々に幸いを語り続ける必要があります。「あなたは今、悲しんでいます。けれども神はあなたを必ず慰めてくださいます。だからあなたは幸せです。信仰を持たなかった時には得ることのなかった幸せが、今やって来たのです」と、語り続ける必要があるのです。

もしも、見た目に幸せな人にしか、幸いを語れないとしたら、めったなことでは幸せですねと人に言えなくなるかも知れません。見た目にも幸せいっぱいという人はそんなにいないのではないでしょうか。何かの困難を抱えているし、何かの不幸を経験した人がほとんどです。幸いを約束してくださったイエスの姿を届けるはずなのに、どうかすると差し出した手を引っ込めています。カトリック信者が喜びを届けられなくなったら、何のための証し人でしょうか。

ここに、私たちの信仰が問われるのだと思います。悲しむ人々が慰められると言いました。それは神から慰められるという意味です。ですから間違いがありません。これを受け入れるのは信仰の力です。人知れず悲しんでいるとしても、神は私に目を留めて慰めてくださる。きっと慰めてくださる。この思いを保ち続ける力は信仰以外にありません。そして信じ続ける人に、約束は必ず叶えられるのです。

身に覚えのないことで悪口を言われることは私たちの生活の中で数え切れません。今世の中では、公共料金を集金して回る人たちは、きっと身に覚えのないことで文句を言われたり拒否されたりしているのだと思います。中には棒をもって追い回され、けがをした人もいるそうです。

突然の災害で家族を亡くした人とか、私のせいでないことにまで文句を言われて苦労している人。そういったいろんな人に、カトリック信者は力になってあげるべきだと思います。イエスは、あなたのような人に幸いを語ってくださるのですと伝えましょう。私には今を変える力はないかも知れません。ですが、神がこの苦労を喜びに変えてくださると語り、そのために祈ることを約束することはできると思います。

私たちは生涯口にすることのない言葉もあるでしょう。ですが、幸せについては、どんな困難の中でもカトリック信者は口を閉ざしてはいけません。こんな中にも神はおいでになって、あなたを変えてくださいますと語っていけるように願いましょう。希望がないと思える中に希望と幸せを語り続ける時、そうした証し人がいる教会に、神は今も働いてくださるのです。
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(マタイ5:13-16)
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