主日の福音05/01/23
年間第3主日(マタイ4:12-23)
あなたも「わたしについて来なさい」

素晴らしいもの・素晴らしい人を言い表す時に、過去に現れた素晴らしい物や人になぞらえて表すことがあります。中田神父は大相撲大好きなのですが、その中で、先場所あたりからものすごく力をつけてきた力士がいます。白鵬(はくほう)関です。

日本人ではありませんが、十九歳とは思えないような才能溢れる相撲を毎回見せてくれます。相撲勘の良さと言い、四つ相撲のうまさと言い、最近引退した貴乃花の若い頃にそっくりだと思うのですが、皆さんはそう思いませんか?見れば見るほど貴乃花を彷彿とさせる力士だなあと思っております。

私は今、一人の力士を過去の偉大な横綱に例えてみたわけですが、たとえに引く人物が偉大な人であれば、今目の前にいる人もそれだけ魅力的で、才能を伺わせるということになります。実は今日の朗読箇所で、マタイも同じような方法でイエス様を人々に紹介しようとしています。

今日の朗読は、イエス様がいよいよ公の活動に入られた、公生活が始まったことを紹介する箇所なのですが、ガリラヤで始まったイエスの活動を、福音記者マタイは預言者イザヤの言葉になぞらえています。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4章16節)。

ここで二つのことを考えておく必要があると思います。もしもこの福音記者マタイが十二人の弟子の一人、徴税人マタイだとしたら、イエスと三年間行動をともにした上でガリラヤでの活動を書き記したことになります。彼はその気があれば、誰にも頼ることなく、自分の言葉でイエスの人となりを書き表すこともできたでしょう。けれども、あえてこの著者は預言者イザヤの言葉を借りてイエスを言い当てようとしています。なぜでしょうか。

初めに、中田神父は魅力的な力士が現れたと切り出しました。若いのに相撲勘がずば抜けている、四つ相撲で格好いい。将来が楽しみな力士だ。自分の言葉で言おうとするなら、それくらいのものだと思います。ですが、たった一言「引退した貴乃花を思わせる」と言っただけで、紹介しようとしている力士がどれほど才能に溢れ、魅力的であるかが伝わるのではないでしょうか。

つまり、マタイはイエス様の魅力、言葉では言い表せないほどの溢れる魅力を伝えるのに、かつての預言者イザヤの言葉を引くのがいちばん伝えやすい、イザヤによって語られた「闇に光をもたらす方」と言い表したほうが、誰にとってもイエスの魅力を理解しやすい。そう思ったのではないでしょうか。

もしも、福音記者マタイが十二人の弟子のマタイではなく、弟子のマタイにあやかって「マタイ」と称していた人であったとすれば、これほど魅力的なイエスを言い表すのに自分の言葉はあまりにもつたないと感じたのではないでしょうか。

そして、偉大な先人の言葉に照らして紹介するほうが、誰にとっても−−当時の読者にとっても、私たち二千年後の読者を含む後の時代の読者にとっても−−イエスの魅力を余すところなく表現してくれると考えたのではないでしょうか。

そうです。これまでに見たことも聞いたこともないような人を褒める時、自分の言葉をたくさん並べるよりも、偉大な先人になぞらえたり、先人の言葉を引いたりするほうが、かえって紹介しようとする人を引き立てることがあるのです。イエスは過去のどんなすぐれた預言者をも越えておられる方ですが、その魅力を書物に収めるには、預言者イザヤの預言を思わせる人だと表現する以外になかったのです。当時のユダヤ社会で、イエスの魅力を表現する方法は、皆が学び、親しみを覚えている書物、当時の「聖書」に頼る以外になかったのです。読者はこの方法で、イエスの魅力を十分に味わえたのではないでしょうか。

イエスの魅力が、イザヤの預言「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」を思い出させたこということは、イエスの言葉や行いが飛び抜けて魅力的だったに違いないと思えてきます。

実際には、イエスの第一声は先駆者ヨハネの第一声と同じ「悔い改めよ、天の国は近づいた」でした。ですが、ヨハネの第一声に福音記者が思い起こしたイザヤの預言は、「主の道を整えよ」という言葉でした。同じ呼びかけでも、重ねた預言の言葉が違っています。それはつまり、同じ言葉を語ってはいても、イエスが語った時にはいっそう魅力的だったということなのです。

そのことを感じさせるもう一つの例は、これに続く漁師を弟子にする話です。マタイ福音書によれば、漁師のシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは「わたしについて来なさい」と声をかけると、すぐに従ったことになっています。食べていくだけの暮らしはすでに身につけているのに、何の保証もない生き方に身を置くのは本来は無謀なことです。それでも決心してついて行ったところを見ると、言葉では言い表せない魅力がそこにあったに違いないと思うのです。

ときどき私たちも、損を覚悟で引き受ける仕事があります。毎度毎度損をするわけにはいきませんが、損しても構わないと思えるような相手を見つけた時には、自分の出費を横に置いてでも協力したいと思うものです。それは、自分にとって魅力ある人に出会えるから、自分から動きたいと思える人だからでしょう。イエスには、「いちどだけ話に乗ってみよう」ではなく、「生涯を賭けてみよう」と思えるほどの魅力を覚えたに違いないのです。

その、何とも言えない魅力を、当時の人々に伝えたのが、イザヤの預言「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」だったのです。

何を、ここから学ぶことができるでしょうか。私は、人を惹きつけてやまないイエス様の魅力を、ここで学ぶとよいのではないかなあと思います。もちろん全く同じように身につけるという意味ではありませんが、イエス様のどこかに、人を惹きつけてやまない魅力があるわけです。

思うにそれは、「証しをする姿」にあるのではないでしょうか。「天の国」を告げ知らせたイエスが「わたしについて来なさい」と声をかけ、四人の漁師はついて行きました。神の国を証しするイエスに、何とも言えない魅力を感じたのですから、私たちが本当の意味で魅力的であるためには、つねに証しする者である必要があるのではないでしょうか。

何も、特別なことはいりません。私が生活のいろんな場面で祈りを唱えたり、ちょっと神様に心をあげたりするだけで、私はほかの誰にとっても特別な魅力を備えた人になるのです。

職場にあって、ちょっと手を合わせて食事を取る。ふだん食前の祈りをしない人にとってははじめは抵抗あるかも知れません。けれどもそこを一つ乗り越えると、あなたはその場にいるどの人よりも魅力的な人なのです。証しをすることで、私はイエスの魅力をいくらか引き受ける者となります。

弟子として、イエスの魅力を引き受ける者も必要でしょう。社会にあってその役を引き受ける人も必要です。それぞれの場所で、証しをする者でありたいと思います。それこそが、どんな言葉でも言い表せないような魅力を身につける素晴らしい生き方なのですから。
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年間第4主日
(マタイ5:1-12a)
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