主日の福音05/01/16
年間第2主日(ヨハネ1:29-34)
だからこそ私は証しします

今日の朗読福音に登場する洗礼者ヨハネの証しには、一つの時間の流れを見て取ることができます。この時間の流れに注目して、私たちも今週一週間の糧を得ることにいたしましょう。

まずはどこにその時間の流れが見られるか、洗礼者ヨハネの語る言葉を少し区切りながら考えると、ヨハネは初めイエスのことを知らなかったと言っています。「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方である。わたしはこの方を知らなかった」。時間の流れでヨハネのこと言葉をまとめると、イエスを知る前の時間ということになります。

時間の流れを探す二つ目の点は、今日の朗読の初めです。ヨハネは自分の方へイエスが来られるを見ました。そしてイエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言います。イエスは、ご自分のことをヨハネに示すためにおいでになりました。イエスみずからおいでになったことも、付け加えておきましょう。

最後に、イエスのことを知ったヨハネはどうなったかが記されています。「わたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(33-34節参照)。ヨハネは、かつて知らなかった人を今知るにいたって、証しをする者となりました。

少し込み入っていますが、思い切ってまとめると、今日のヨハネの言葉の中には、「イエスを知らなかった時の証し」「そのヨハネにイエスはおいでくださった(=今という時間)」「イエスを知った後の証し」という三つの時間にまとめることができます。

さらにこの時間の流れの中でヨハネに起こった出来事をひとことで言うと、ヨハネはイエスを知らなかったが、イエスご自身が現れてくださり、ヨハネはすっかり変えられた」ということです。証しする者に変えられました。

じつはこの同じ出来事が、私たちにも繰り返されています。人間はある時まで神を知らずにいます。けれども、神はみずからご自分を示し、導きます。私たちはその時から、神に変えられた人間として歩き続けるのです。

そうであれば、ある時私たちはこの時間の流れに気付き、後戻りしないという決心をする必要があると思います。人それぞれ、はっきりと出会う時期は違うかも知れませんが、神が確かに近づいてこられ、今がその時だと知らせたならば、私たちはその時から、すっかり変えられた者として生きるはずです。今日、説教の中で、お互いにこの点を確認することにしましょう。

誰を例に挙げればよいでしょうか?ここでは他の誰かを挙げず、私自身のことを振り返ってみたいと思います。模範という意味ではなくて、正直にこれまでの自分を告白してみようと思います。

中田神父に、神が確かに近づいてすっかり変えてしまったのはいつでしょうか?あまり、実感はありませんが、それでもあの日あの時と言われたら、それは叙階式の時だったかも知れません。叙階の秘跡を受けた時に、私はすっかり変えられたのだと思います。

世の中には他の言い方もあります。「あの人はすっかり変わってしまった」という言い方です。私は両方を区別したいと思います。「すっかり変わった」という言い方は、またいつか別の姿に変わることもあるかも知れません。良い方に変わったり、悪い方に変わったり、これからもクルクル変わるかも知れません。

神にすっかり変えられるとは、そのような変化ではありません。すっかり良い方に変えられ、もはや方向は変わらないのです。私が自分で変わったのではなく、変えられた。だから、いちど変えられた方向は神以外に変えることはできないのです。

私は、自慢しているのでしょうか。そうではありません。叙階の秘跡を受け、いったん司祭に変えられた人間は、その司祭が神を悲しませる人間であっても、もう後戻りはできないのです。神が注いだ叙階の恵みを取り消すこともできないのですから、恵みを受ける本人は、たいへんな責任を負うことになります。神に変えられたという事実は、責任を感じることはあっても決して威張ったりできるものではありません。

私自身、叙階の恵みを受けてから確かに変わったと感じることが一つあります。それは、何かの出来事が起こった時、その意味は何だろうと考えるわけですが、その時に「神は何を教えようとしているのだろうか」とか、「神はわたしにどうしてほしいと思っているのだろうか」としか考えられなくなったということです。

幼い頃、同級生のみんなと占いごっこをしたりもしました。時間が経てば今度は宇宙人がいるとかいないとか本気で考えました。あるいは運命って何だろうといろんな理解の仕方で受け止めていました。それは、皆さんお一人おひとりと少しも変わらないと思います。

ですが、今はどう考えようとしても、神が喜んでくれるのではないかと思うような意味づけや、ものの考え方や目の付け所から、離れることができなくなったのです。他の考え方を探そうと思っても、何も出てこないのです。これは、すっかり変えられた一つの例だと思います。そしていつからそうなったかと考えるなら、やはりそれは叙階の秘跡を受けたその時だったろうということに落ち着きます。

もちろん、逃げたい時もたくさんやってきます。必死に神のまなざしに目をつむり、神は見ていないと思い込もうとしても、どうしてもそうできなくなっているのです。神は見ていないと、どう考えても考えることができないのです。

皆さんにも同じような体験がないでしょうか。どう考えても神はいないと思い込めない。神を恨むこともあるし、こんな信仰なんて捨ててしまいたいと思うこともあるかも知れません。たとえ私が信仰を放り投げたとしても、それでもどうしても、神がいないとは思うことができない。そう感じた時、あなたはもう神にすっかり変えられた人なのだと思います。

いつ、そのような自分になったのでしょうか。いつ変えられたのでしょうか。説教の初めに考えたように、神にすっかり変えられるまでには、神を知らなかった時代があり、そこへ神がみずからおいでになり、すっかり変えられるという段階を踏むはずです。どこかで、私のすべてが切り替わったひとときがあるはずです。それは、いつだったのでしょうか。

ある人にとって、それは大人として洗礼を受けた時かも知れません。結婚相手のカトリック信徒これまで暮らしてきた時間が、あなたを変えたかも知れません。生きるか死ぬかの瀬戸際で秘跡を受けて、奇跡的に助かった時から、すっかり変えられたかも知れません。またはそんな死線を乗り越えた家族や身内を見て、神様がいないとはどうしても考えられないと思えるようになったかも知れません。

そうしたかけがえのない体験は、ぜひ大切にしてほしいと思います。確かにあなたは、その時神にすっかり変えてもらったのです。どのように大切にするか、人それぞれでしょうが、何かの形で、あなたが変えられた日を思い出して神に感謝してほしいと思います。感謝の気持ちを、祈りで捧げたり、ミサに参加して捧げたりして欲しいのです。

そして、すっかり変えられたのだというあなたの体験は、もはや失うことがありません。そうであれば、すっかり変えられたヨハネがイエスを証ししたように、私たちも人々の前で証を立てるべきではないでしょうか。どう考えても、神がいないとは考えられませんと、人々に告げ知らせるべきではないでしょうか。

人間が変わったという時は、それはいつまた他の姿に変わるやも知れません。ですが神に変えられた人間は、もはや他の何者にも変わり得ないのです。この確かな事実をもとにして、神様はいますと人々の前で信仰を言い表すことができるように、証の力を願いましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第3主日
(マタイ4:12-23)
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