主日の福音05/01/09
主の洗礼(マタイ3:13-17)
ヨハネはイエスの言われるとおりにした

年末年始に大変な目に遭わされた風邪もようやく治りました。まわりの方の心遣いはありがたいもので、金柑をもらったりあんず酒をもらったり、それらのおかげで辛いときずいぶん楽になりました。おおいに励まされたのは年賀状の話です。とある馬込の方が今度転勤してきた私のことを「馬込のヨン様」と年賀状で書いてくださったそうで、その話を聞いて急に元気になりました。これからは首にマフラーを巻いて、櫓を漕いでみたいと思います。

いちばん近くの方から病院に行ってみらんですかと勧められたのですが、結局行きませんでした。方々から電話の問い合わせがあったようで、あんたから病院に行くように勧めてみてよと、いちばん近くの方は再三電話で責められたそうですが、こうじ神父は言うことを聞きませんでした。どうやら司祭は人には説教するくせに、なかなか人の言うことを聞かない人種のようです。

今日、主の洗礼の祝日を迎えております。ヨハネは「思いとどまらせようとした」(14節参照)とありますが、イエス様は強く洗礼を望みました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」ヨハネにも彼なりの言い分があったわけですが、それを取り下げました。「そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(15節)。

じつはこの、「言われるとおりにした」というのが今日の福音朗読の重要な点だと思います。ここでヨハネは、どんな思いでイエス様に洗礼を授けたのでしょうか。

私は、この場合の「言われるとおりにした」は、はじめは納得はしていなかったのだと思います。罪のないイエス様には、回心の洗礼を受ける理由がありません。さらに、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに・・・」と、立場もわきまえていました。ですから、筋が通らない、納得いかないと思っていたはずです。

ところが、イエス様のお考えに触れたとき、協力することにしました。イエス様の心は「今は人としての振る舞いを示しています。人として神に取るべき態度を取ることは、この場にふさわしいことではないでしょうか」という思いだったのです。

ヨハネは、群衆に向かって回心を呼びかけた人でした。回心は言ってみれば、神に取るべき態度をきちんと返すということです。ヨハネもまた、まっ先にその模範を示したわけですが、ここではイエス様が、人間として神に取るべき態度を示すためにおいでになっていたのです。父である神の前に、神の子として十分に心に適っていたわけですが、人間としても、心に適う者でありたいということだったのです。

この時、ヨハネの洗礼はその役割を終えました。ヨハネの洗礼は、神に取るべき態度を人が示す機会となりましたが、それはあくまでも人間ヨハネが群衆に機会を作っていたに過ぎません。そこへイエス様が洗礼をお受けになり、以後は聖霊と火による洗礼が始まります。そこでは人が人に準備を促すのではなくて、神が直接働いて、私たちを準備させてくださるのです。神ご自身が洗礼の恵みを注いで、人間が神に取るべき態度を返すことができるように導くのです。

洗礼者ヨハネは、新しい導きが始まったことを実感しました。考えてみると、人間が回心の洗礼をほどこす時代が終わり、神ご自身が洗礼を授けてくださる時代が来たので、ヨハネはイエスの言われるとおりにしたと言えるかも知れません。そうであれば、言われるとおりにしたことはもはや受け身でも不承不承でもなく、イエス様への積極的な応答となっていたのです。

ここには一つの発見があります。「イエスの言われるとおりにした」という態度は、ただ単に命令に従っているのではなく、神の働きに協力するという意味を持つようになります。人が人の言われる通りにするのは隷属ですが、人が神の言われる通りにすることは、神への立派な協力なのです。

そこで私たちの学びを得ることにしましょう。イエス様が洗礼を受けたこともはや繰り返されることはありません。私たちにとってもっと大事なことは、私たちがイエスの言われるとおりに振る舞うならば、神の働きに協力することになるということです。

洗礼者ヨハネは、イエスの言われるとおりに振る舞い、聖霊と火による洗礼の幕開けに協力しました。私たちの時代にも同じ洗礼が施されています。そして私たちも、洗礼を授けるときの言葉を一度も変えることなく唱えてきました。「わたしは、父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます。」イエス様の言われるとおりに洗礼の言葉を唱え続けました。それは単に命令を守ったという意味にとどまりません。私たちが忠実に唱え続けたことで、むしろ神の働きに積極的に協力してきたのです。

最後の晩餐、イエス様は次のように仰いました。「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26・26)。私たちはこの言葉を二千年のあいだイエスの言われるとおりに繰り返し唱えてきました。ある場合変化のないものは時代に取り残されて廃れていきますが、イエスの言葉を言われたとおりに司祭が繰り返したことで、神は二千年のあいだ変わらず働き続けているのです。これを積極的な応答と言わずに何と呼ぶでしょうか。

洗礼式も聖体祭儀も、司祭に固有の働きと思っているかも知れません。ですがある場合は信徒も洗礼を授けることがあり得ます。自分の妻が洗礼の勉強をずっと続けて復活祭に洗礼を受けることにしていた。たまたま復活祭前に夫婦で乗った飛行機が墜落するかも知れない緊急事態になったとき、夫はその場にミネラルウォーターなどの水を用意して、「わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と間違いなく唱えて三度水を注ぐなら、夫が授けた洗礼であっても有効な洗礼になります。

イエスが言われたとおりの言葉を唱えて洗礼を授けたので、たしかに神が働いて洗礼の恵みを注いでくださるのです。言われたとおりにしたことで、神の働きに協力することになるのです。こうしてみると、イエスの言われたとおりにすることがどれだけ積極的な働きになるかが分かると思います。

もう一つ、皆さんにもできることがあります。それは、「聖書を読むこと」です。私たちの知る限り、イエス様の言葉は聖書の中に納められています。心を込めて聖書を読むとき、私たちはイエスの言われたとおりにしているのではないでしょうか。

聖書朗読のことでいちばん分かりやすい箇所を紹介しておきます。私たちが今年一年を通して読み続けるマタイ福音書の最後には、次のような言葉があります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28・19−20)。

この箇所を繰り返し読む、しかも言われたとおり、書かれたとおりに読む。そうすることで、私たちは次第に、イエスに寛大に協力する信徒と変わっていくのではないでしょうか。

聖書の朗読で思い出しました。昨年六月の第一日曜日に、食事の前に一ページずつ、聖書を読めば年内に新約聖書を読み終えますと言いました。あわせてこうじ神父も読み続けるのでいっしょにどうですかと勧めました。どなたが試してみた方はいらっしゃるでしょうか。

私は、幸いに年内に一度読み終えました。皆さんに公言したことでもありましたので、懸命に読み続けましたが、皆さんはどうだったでしょうか。今年は、心を込めて読み、イエス様の呼びかけに協力しようという心を育ててみたいと思います。

洗礼者ヨハネは、イエスの言われるとおりに振る舞い、新しい洗礼の幕開けに協力しました。私たちもイエス様の招きに忠実に振る舞って、神の偉大な働きに協力していけるように願いましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
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