主日の福音05/01/02
主の公現の祭日(マタイ2:1-12)
その星は、心の中で輝き続ける
今日は主の公現の祝日です。公現という漢字からも読み取れるように、幼子が公の面前に現れる、学者に代表される異国の人々にも王として示された祝日と言ってよいと思います。今年の学びとしては、学者たちを幼子の礼拝に導き、ヘロデ王を慌てさせた「星の働き」に目を向けてみたいと思います。
占星術の学者たちは、東方で星を見たと証言しています。星を見たのはいったいどの国においてだったのでしょうか。私などはおおいに想像をかき立てられます。一年か、二年の歳月をかけてやって来る、それくらい離れた国と考えれば、もしかしたらインドあたりからやって来たのでしょうか。
とにかく、星は占星術の学者たちをユダヤ人の王としてお生まれになったイエスのもとへ導いていきます。学者たちは、宝の箱を開けて、「黄金・乳香・没薬」を贈り物として献げました。学者と皆から尊敬される人が、これほどの贈り物を準備して幼子のもとへ出向いてきたのです。学者たちが星から得た確信がどれほど揺るぎないものであったかが分かると思います。
ところが、その同じ星の知らせは、ヘロデ王を不安に陥れます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2節参照)。その国の王であれば、重大なニュースは部下から必ず伝えられるはずです。それなのに王が生まれるという重大ニュースをヘロデはおろか、誰一人知る者はいませんでした。出来事を知らなかったということだけでも、ヘロデの心には怒りが湧いてきたかも知れません。
ヘロデは、事実を知ってうろたえます。表向きは「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と答えましたが、心の中ではその子を消し去ろうと考えています。東方の学者たちには喜びを与え、礼拝に向かわせた星の知らせが、ヘロデの心には届きませんでした。
ヘロデは、自分自身が人々から拝まれる権力者・王であると思い上がっていたのでしょうから、自分がひざをかがめる相手がこの国にいるということは許せなかったのです。と同時に、ヘロデ自身が他の者を蹴落として権力の座に着いていたので、同じ目に遭うのはまっぴらゴメン、へたをすると新しい王に自分が抹殺されるかも知れない、そんな思いに駆られて、幼子の命を狙ったのかも知れません。
私は、星の知らせが学者を礼拝に向かわせ、ヘロデを憎しみへと駆り立てたことがたいへん興味深いと思いました。星は天に輝いています。天とは、人間の手の届かない場所、言ってみれば神の支配する場所です。そこで救い主の知らせが現れたとき、これは天からの知らせであると学者は読みとり、ヘロデは自分よりも上にある者・天の支配を認めることができなかったということではないでしょうか。
ここには、私たちもあらためて考えるべきことがあると思います。私たちはこの地上で暮らし、ある人はたくさんの知識や知恵を学び、誰にも負けない学問を修める人もいます。ですが、それらの人々がすべて天の支配を、神が人間を教え導くということを学ぶわけではありません。どれだけこの世の最高の知恵者となろうとも、天に輝く星、人間よりも上にあり、人間を照らし導く神を認めなければ、本当の知恵者とは言えない、本当の王とは言えないということです。
文字通りの意味でも、私たちはふだんの暮らしの中で天を見上げたりしませんし、めったに星を眺めることもありません。星は、人間の自由にならない場所にあって、輝いています。同じく、神は世界の上にあって、世界を導いていることを忘れてはいけないと思います。
学者たちを導いた星は、彼らを無事に幼子のもとに導いたあと、どうなってしまったのでしょうか。その後のことは何も書かれていませんが、私はこう考えたいと思います。星は、彼らを幼子のもとに導いたあとも、彼らの心の中で輝き続けた。そう考えたいのです。
学者たちは、星の導きによって救い主のもとへたどり着きました。この世で最高の学問を修めた者であっても、拝むべき神がいることを知りました。贈り物は、いわば拝むべき神を認めた証です。はるばる遠くからやって来た学者たちは学問以上のものを幼子のもとで学び、学んだことはその後も生き続けたのです。
学者たちは、ヘロデの元に戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。彼らの心の王はもはや救い主キリストであり、ヘロデではないからです。まことの王を心に抱いているので、偽りの王のもとには戻りません。まことの王の導きを信じて、それぞれの国に帰って行った、これからの人生に旅立ったわけです。
ここから、私たちも次のことを学ぶことができます。まことの神と出会った人は、心の中に神が留まり、輝く星となって導き続けるということです。この世にいるすべての人が、汗を流して働きます。その中である人は頂点に登り詰めたり、ある人は自分なりの目標を成し遂げていきます。
たとえ自分の思っていたことを成し遂げても有頂天になってはいけません。自分がここまでたどり着けたのは、すべてを照らす星、すべてのものの上にある神が私の星となって導いてくださったのだと、見えないけれども照らし導いている星を忘れてはいけないのだと思います。
もし、私が心の中で救い主が照らしと導きを与えてくれていると信じるのであれば、私たちは機会を見つけて心を照らす星のことを人々に話すべきではないでしょうか。証を立てるべきではないでしょうか。
ある人は何でも自分の思い通りになると有頂天になっているかも知れません。ある人は誰も自分を助けてはくれない、誰も私に目を留めてくれないと嘆いているかも知れません。絶好調で自分しか見えない人、希望もなく暗闇の中にある人、どちらにしてもあなたが出会うその人に、人間を照らし導く神がいらっしゃる、あなたの心の中で星となって導く神がいると、案内してよいのではないでしょうか。
占星術の学者たちは、天に星があることを認めました。その星が指し示した幼子をみずからの人生の王として贈り物を献げました。私たちも日曜日毎に礼拝すべきお方をこの目で確かめ、贈り物を献げましょう。それぞれの場に帰って行くとき、神に導かれて生きていくことを心に刻んで持ち帰りましょう。
そうして心に持ち帰った導き手が、ついにはあなたと出会う人をまことの生き方に案内していく。こんな一週間のリズムを今年一年目標にしていきたいと思います。
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‥‥次週は‥‥‥
主の洗礼
(マタイ3:13-17)
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