主日の福音05/01/01
神の母聖マリアの祭日(ルカ2:16-21)
打ち明けたいものは母マリアに

皆さん明けましておめでとうございます。新しい年も、よろしくお願いいたします。皆さんといっしょに、今年も信仰の道を歩んでいきたいと思います。

新年の初めにまずお断りしておかなければなりませんが、もしも、年賀状のあいさつを出してくださった方がいらっしゃいましたら、この場を借りてごあいさつに代えさせていただきます。今日神の母聖マリアの祭日は守るべき大祝日であり、あいさつの必要な方は必ずここに集まってくださっているはずですので、小教区内の方々には年賀状は用意しておりません。あらかじめ、お知らせしておきたいと思います。

さて、教会は一年の初めを神の母聖マリアに託しましょうと呼びかけます。マリアは、今日の朗読にありますように、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らしてくださる方」(19節参照)です。私たち一人ひとりのことも含めて、母として心に留めてくださるのですから、この一年を実りあるものとするために、初日に自分を託すというのは大変賢いことです。マリアはこれからの一年を見守ってくださり、必要があれば神に取りなしをしてくださることでしょう。

この心に留めてくださる母の姿を、さらに掘り下げてみたいと思います。神の母となってくださった聖マリアは、洗礼によって神の子とされた私たちすべての母となってくださいますが、子供と母親の関係は、父親との関係とはまた違った面を持っているのではないでしょうか。

スポーツを例に考えてみたいと思います。子供はしばしば、親の期待に応えようと努力する傾きがあるわけですが、一般に子供は、親には良いところを見せたい、また心配をかけたくないという考えが働くのではないでしょうか。

たとえば、何かの選手に選ばれると、一身に親の期待を受けたその子は結果を出そうと努力するものです。たとえ練習中に怪我をしても、試合の当日に体調を崩していても、何とか結果を出して喜ばせたいと抱えている不安を隠そうとするのではないでしょうか。

問題はここからなのですが、そうは言ってもやはり、体の不調や怪我、試合を前にしての不安など、弱い面も必ずついて回るものです。そんな不安を、子供はどちらに打ち明けるのでしょうか。父親に、不安を打ち明けるのでしょうか。母親にでしょうか。

私は、ほぼ間違いなく母親に打ち明けるのだと思います。私の経験で言えば、父親に心の不安や怪我してしまったことを打ち明けたとしても、自分で乗り越えなさいと言われるだけで、心配も同情もしてもらえないと思います。少なくとも、表面上は心配してくれるそぶりは見せないと思うのです。

ところが母親は、子供たちの弱さにも心をかけてくれます。怪我を抱えている、内心は不安だらけでおびえている。そんな弱さにも、母親はしばしば寄り添ってくれるものではないでしょうか。

この、母親に特に見られる心配りに、私たちは目を向けたいと思います。父親には元気で頑張っている、何も問題はないと言ってはいても、母親にさらに尋ねられると、実はこんなことで困っているとか、こんな病気になっているとか、いろんな弱さを打ち明けたりするのではないでしょうか。

もしかしたら、父親はこうしたことを理解しないかも知れません。そんな弱い子供に育てた覚えはないと、突き放されるかも知れない。そう思うとますます、子供は心配をかけてはいけないと思って、無理をしたり頑張りすぎたりするわけですが、それでも母親には、弱い面も打ち明けて聞いてもらいたいと思うことがあるものです。

私たちのこうした経験は、実はマリアにも期待してよい部分ではないでしょうか。社会生活であれ、信仰の歩みにおいてであれ、人間は失敗もせず弱りもせず、何も問題ない、すべてはうまくいっていると言えるような道のりを辿れるものではありません。しばしば道を外れ、弱り果て、歩くことに疲れて座り込むのです。そんなとき、親に心配かけてはいけないという思いと、自分のありのままを聞いて欲しい知って欲しいという両方の思いに、板挟みになるのではないでしょうか。

社会生活の中では、実際の母親か、配偶者か、あるいは信頼できる誰かが、あなたの弱さを聞いてくれることでしょう。ですが、信仰の面では、なかなかそういった頼れる人を持つことができないかも知れません。

マリアはそんな弱さを抱える私たちの母です。信仰の面でも何も問題ない、いつも順調だと言い張るあなたは、実は心のどこかで罪を抱えているかも知れません。人に言えず、弱さを見せることもできず、強がっているかも知れません。ですが、人間はそんなに強くはないのです。信仰でも私は問題はないと言って一生を終われるほど立派ではないのです。

そんなとき、自分の弱さ、足りなさを素直に打ち明けるのは、母である聖マリアではないかと思うのです。神の前に立たされると、私は信仰上の問題は何もありませんと言い張っていますが、マリアがどんな弱さでも打ち明けてみなさいと言ってくれるなら、実際はいろんな弱さを打ち明けたいのではないでしょうか。

教会に何年も足を運んでいなくても、私はまだ弱っていませんと言い張っています。人間関係で神様に心配かけていても、心配かけたくないあまりに自分のことは自分でしますとつい言ってしまうのではないでしょうか。マリアは、神の母として、神の子供である私たちの母として、強がっている私たちに手を差し延べてくださるのだと思います。

いろんな事情で、信仰面に問題があるのをありませんと言い続けているのであれば、心の中をマリアに打ち明けましょう。マリアは母として、弱さも含めてわたしたちを受け入れてくださいます。誰にも言えない弱さも、母はそのまま受け止めてくださいます。母の思いやりを今日あらためて認め、この一年をマリアに託して始めることにいたしましょう。

私たちはマリアを通って、この一年を始めます。幼子イエスの成長とともに、母の暖かいまなざしの中で私たちも信仰を成長させていくことができるように、続けてミサの中で願うことにいたしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥