中学校黙想会(中3)2004,3,10

●こんにちは。私はカトリック太田尾教会の司祭で、中田輝次(ナカダコウジ)と言います。一日黙想会を引き受けて、皆さんと「いっしょに考え・答えを探す」旅をしてみたいと思っています。よろしくお願いします。
●「神父さんは、普段何をしているんですか?」よく質問されるんですが、普段の仕事は、太田尾教会のカトリック信者の方々に必要なお世話をすることです。「ミサ」と呼ばれる礼拝を行うこと、小学生・中学生への宗教教育(宗教の授業みたいなもの)、大人の方への信仰生活上のお世話、洗礼を受けたい人や、結婚したい人への準備勉強会、病気などで家庭・病院・ホームにずっといる方々のお見舞いなどです。
●じつは三年前にも、中学3年生の黙想会を引き受けたことがあります。三年という時間は、結構長い時間だと思います。たとえば中学生に当てはめると、三年で生徒はすべて入れ替わります。もしも三年後にここに私が来たとしたら、私は皆さんの中の誰とも会わないわけです。
●結構長い時間だなあと思った理由はほかにもあります。じつは三年前にここに来たときに、体重はたぶん75キロくらいだったと思うんです。でも今は、悲しいけれども、80キロ以上あります。それから、三年前はもう少し頭の髪が残っていたんですけれど、三年経ったら、ハゲおじさんになっちゃいました。「人は見かけじゃない」と言いますが、私の正直な気持ちは、ハゲになるよりはならない方がいいなあって思います。
●今日、黙想会を進めていくために、大きなテーマを「どんな問題でも解いてみよう」としてみました。誰もが、問題に突き当たったら、それを解決して前に進んでいきます。それは大人の人だけじゃなくて、もう少ししたら大人になる中学3年生の皆さんにも同じことが当てはまります。皆さんも、今何かの問題に突き当たったら、問題を解決して前に進む必要があるわけです。
●それで、一回目の話は、どんな問題でも解いてみようと、心に決めるところまで考えてみたいと思います。心から、「この問題を解いてみよう」と思うこと、「目の前の問題から、逃げないこと」を自分で確かめる。そのお手伝いを私もしたいと思います。

●始めに、「何が私にとって問題なのか」を少し考えてみましょう。例えば、「髪の問題」は私にとっては少し問題かも知れません。気にしているわけですから、少し問題にしているのだと思います。皆さんはたぶん、まだ問題じゃないと思います。まあ、そのうちに「オーダーメードウィッグ・ピュアライン」のお世話になる時が来ると思いますが。
●「私の髪」の問題は、皆さんにはまったく問題のないことです。もし将来にわたって、皆さんにボーイフレンドができて、その彼の頭が思いっきり薄かったら、ちょっと問題になるかも知れませんが、今のところは何の関係もないことでしょう。
●ですが、例を少しひねったら、皆さんの反応も変わってくるかも知れません。私が今話していたこと、それはもう少し一般的に話すと、「からだについての話」ということでした。頭は関係ないかも知れませんが、自分のからだのどこかで、「少し気にしている部分」がないでしょうか。すごく気にしているか、少し気にしているかの違いはあるかも知れないけれども、誰もが「からだのこと」は少し気にしているのではないでしょうか。
●分かりやすく話しましょう。あなたの身長・体重、その他の細かい部分について、すべて満足しているでしょうか。どこかの部分に、不満を持っていたり、悩んでいたりということはないでしょうか。
●ある人は、足が大きいことを悩むかも知れません。ある人は、顔が大きいことを気にしているかも知れません。もし何かからだのことで悩んだり気にしているなら、あなたには「解決しなければならない問題がある」ということなのです。
●もちろん、「からだのこと」で何も問題を感じない人もいます。たぶんその人は幸せな生活をしている人だと思います。からだのことでは、幸せです。けれどもその人も、もしかしたら別の問題を抱えているかも知れません。私たちの周りには、ほかにもたくさんの「問題」があるのですから、一つのことが問題にならなくても、「解決しなければならない問題」はたくさんあるからです。
●例えば、皆さんは自分の「話し方」に満足しているでしょうか。ある人は「さ行」が思うように発音できない人がいます。「さしすせそ」と言っているつもりが、「せせせせそ」と聞こえている場合があります。誰かに笑われたことがあるとか、人前でそれを言われたりして、すごく傷ついている人もいるかも知れません。そんな人にとっては、「話し方」は気になる問題です。いつか、解決しなければいけない問題です。
●「性格」についてはどうでしょうか。あなたは、自分の性格に満足しているでしょうか。自分が嫌いという人は、「からだのこと」が嫌いな人もいますが、「性格」が嫌いだという人もけっこういると思います。もし自分の性格が嫌いなら、それは自分にとっての「解決すべき問題」ですね。
●ここまで、「何が私にとって問題なのか」を考えてきたわけですが、たぶん、「あー、私にも解決しなければならない問題があるかも知れないなあ」と感じたかも知れません。ぼんやりとでもいいからこの出発点を意識して欲しいと思います。意識したら、次に進んでみましょう。

●次に考えてみたいことは、「私は、問題を解決できるだろうか」ということです。答えを先に言ってしまうと、「解決しよう!」と心に決めさえすれば、きっと解決できます。けれども、解決しようと思わなければ、いつまでもその問題は残ったまま、毎日の生活が続いていくことでしょう。
●本当に、私は問題を解決できるのでしょうか。私に、問題を解決する力があるのでしょうか。中田神父に言わせると、答えははっきりしています。皆さんは、問題を解決する力をちゃんと持っています。少なくとも、あることに気が付けば、いつかきっと問題を解決できるようになります。中田神父が自信をもってこう話すわけを、これから説明したいと思います。
●皆さんは中学3年生です。そして、もうすぐ高校生になります(よね)。そうすると、皆さんはこれまでに、数え切れないほどの「問題」を目の前にして、それらに「答え」を出してきたのではないでしょうか。もっとはっきり言いましょう。中学3年生の皆さん、皆さんはこれまでの三年間で、何回「中間・期末試験」を受けてきましたか?
●一回の試験には、何科目含まれていましたか?また、心優しい先生方は、皆さんに毎日毎日、山のような宿題を出してきたと思います。その宿題は、「してもいいよ、しなくてもいいよ」というものだったでしょうか。きっと、必ず次の授業までにしないといけなかったはずです。
●と、ここまで考えると、一人ひとり、たくさんの問題を目の前にして、すべてに、答えを出してきたのではないでしょうか。じつはこの、誰もが通ってきたことが、皆さんを鍛え、問題を解決する力を育ててくれていたのです。中学生になってから、小学校では想像もできなかったようなたくさんの試験を繰り返しこなしてきた皆さんは、「問題を前にして、自分で答えを出す」ことを繰り返し繰り返し積み重ねてきたのです。
●「神父様、数学と私が悩んでいる問題とはまったく違います」「英語の問題と、私が気にしている性格の問題は違いすぎます」皆さんはそう言うかも知れません。それはそうです。確かに、同じではありませんが、「目の前に問題があり、それは自分で解かなければ、いつまでも解けない」ということは、どちらも同じなのではないでしょうか。
●一つ尋ねてみましょう。皆さんは、中間試験の問題が解けなくて困ったら、試験中に友達に聞くでしょうか。答えが分からないとき、友達の顔を見たり、隣の人の書いている答えを見ますか?たぶんそんなことしたら、先生は同情してはくれないと思います。「あ〜、自分で問題を解くことができないんだね。友達に助けてもらいたいんだね」と、先生は理解してくれるでしょうか?たぶんあなたはカンニングをしていると受け取られて、ひどく叱られるに違いありません。
●ではあなたが気にしている問題と置き換えてみましょう。「性格」を気にしているとしましょう。どうして私はこんな性格なんだろう?あなたにとってとても気にしている問題です。悩んでいて、答えが見つからないとき、友達に聞いて解決したいなあと思うかも知れません。けれども、あなたの性格を友達が解決できると思いますか?
●たぶん、解決できないと思います。あなたの性格のことを、ほかのどんな人もさわったりいじったり、変えたりできないと思うのです。あなたが、自分で解決しようと思わないと、答えは見つからないのではないでしょうか。当然、ほかの人が持っている答えを覗いても、あなたの答えにはならないと思います。
●どうでしょう?学校でのテストも、生活の中での問題も、「問題」がそこにあって、「答えを書く・答えを出す」という働きに注目したら、まったく同じではないけれども、共通点があり、似ているのではないでしょうか。もし、似ているとしたら、私はこれまでに何度も、もしかしたら百回以上、「問題を自分で解いてきた」のですから、力が育ってきているのではないでしょうか。ですから、皆さんは一人ひとり自分の問題をきっと解決できますと、私は自信をもって言いたいと思います。
●得意・不得意はあります。私は数学はまったくダメダメでした。「まったく」です。算数が分かれば、生活に困らないでしょ?と思っていました。けれども、数学が分かれば、もっと多くの問題が解けるようになったはずです。数学に興味が持てなかったために、私が生活の中で抱えている問題のうちいくつかは、今でも解決できないままになっているのではないかなあ、と思っています。
●中学を卒業し、高校生になれば皆さんはもっと複雑なことを学ぶと思います。それらは、あなたが生きていく中で起こるいろんな問題を、いろんな解き方で試すために絶対に役に立つと思います。だから、学校で受けている試験を逃げないでください。逃げない人は、一人ひとりの生活で起こる問題を、正面から解決して歩いていけるようになると思います。

●ここまでの話は分かってもらえたでしょうか?一人ひとり、何か解決しなければならない問題を持って生きています。そして、目の前にある問題を、自分で解決する訓練は、これまでの三年間で一杯積み重ねてきました。ですから、あなたには問題を解決する力がありますよ、と言いました。もう少し、進んでみましょうか。
●問題がそこにあって、解決する力を持っているなら、それからのことは見えてきます。「問題を解決する」ということです。その時、いちばん先に必要なことは、
「自分で解いてみようと思うこと」です。やる気になる、と言ってもいいでしょう。やる気がないと、解決できる問題もなかなか解決できません。仕方なくやらされたことは、自分のものにはなりません。自分でやってみよう、と思って取り組む時に、初めてよい答えが見つかると思います。
●今から、小さな実験をしてみたいと思います。「自分でそうしよう」と思うことが、どれだけ大事なことか、実験を通して体験することにしましょう。今ここに、皆さんの名前が書かれた名簿があります。二人の方の名前を呼びますので、協力してください。小さなお手伝いです。
●先ず、今からする実験を説明します。私が、高齢者の役をします。バス停でバスを待っていることにしましょう。そこへ、名前を呼ばれた人がバスに乗るためにやってきました。学校へ行くためのバスに乗ろうと思っています。ところが、知らないお年寄りが、自分の見ている前で急に倒れてしまいました。バスがもうすぐやってきますが、あなたはどうしますか?という実験です。
●この実験の登場人物とスタッフを読み上げます。バス停のベンチに座る高齢者(中田神父)、バスに乗るためにやって来る中学生二人、この二人は同じ役割です。二人とも、あなたならどうしますか?を態度で表してみてください。同じシーンを二度繰り返します。それを見ながら、いっしょに考えましょう。

●二人の取った態度で、いちばん最初の動きは何でしょうか?高齢者に近寄ったことでしょうか。私は、始めに(1)心が動いた・気持ちが動いたのだと思います。気持ちが動いてから、それとほとんど同時に、(2)からだが動いたのではないでしょうか。この実験であなたが高齢者の人を助けたとしても、逆に助けなかったとしても、そうなったのは、始めに(1)心がそうしようと決めた、その次に、(2)思ったことを実行した。心の動きも含めてこれら一連の動きがあったと思います。分かってもらえたでしょうか。
●今の実験でよく分かったと思いますが、問題を解決するために、何よりも大事なことは、「自分で解決しよう・そうしよう」と心に決めることです。でも勘違いして欲しくないのですが、「自分から動き出す」と言っても、人の言うことを聞かないという意味ではありません。親の意見を無視するとか、先生の言うことを聞かないということとは違います。アドバイスはよく聞いて、最後に「そうだ、こうしよう」と決めるのは自分だということです。

●それでは、残りの時間で、すでにあがった「いくつかの問題」にどんな答えを出していくかをいっしょに考えることにしましょう。三つほど挙げました。「スタイルの問題」「話し方の問題」「性格の問題」です。中田神父なりに考えて出した答えを紹介しますので、参考にしてください。
●まず「スタイル」の問題です。あなたはもっと背が高ければよかったのになあと思いますか?もう少しちっちゃければよかったなあと思いますか?いろいろ思い悩むことでしょう。その中で、答えを出すのはあなた自身なのですが、できるだけよい答えを自分に出して欲しいなあと思います。
●考えるヒントを出してみます。0から9までの数字を思い浮かべてください。0はいちばん小さい数字、9はいちばん大きい数字です。0が、9に言っています。「あー、自分も9だったらよかったのになあ」。こんどは、9が0に言います。「自分は、できたら0になりたかった」。これを聞いて、皆さんはどう考えますか?0と9(もちろん、ほかの数字でも構いませんが)に、すぐれている・劣っているという違いは、あるのでしょうか?
●背の高さ・肌が白いかそうでないか・一重か二重か・痩せているか太っているかなど、あなたが気にしていることに当てはめてみてください。それらの違いは、あなたのすばらしさと、どれくらい関係があるでしょうか。あなたが気にしている「スタイル」の問題のために、あなたという人は決まってしまうのでしょうか。
●そんなことはない、と思います。スタイルは、その人の持っている一部分です。全体ではありません。だから、もしスタイルがあなたにとっての解決できない問題だとしたら、あなたは、一部分で悩んでいることになります。スタイルのことばっかり気にしているとしたら、あなたの持っている全体の中の、一部分のことばっかり気にしているということではないでしょうか。
●そう思って、私は髪の毛の問題を考えることにしようと思います。ハゲかけていることは、「私」という全体の中の一部分です。その頭の中の脳は、今こうしてちゃんと働いています。今日のために原稿用紙40枚程度の原稿を準備しましたが、私の指は幸いにパソコンのキーボードを機関銃のように打ち続けることができます。全体の中の一部分を、あまりにも悩みすぎることは、もったいないことだと思います。
●皆さんは、スタイルを気にする人ですか?スタイルを気にすることは、その人の美しさを育てる大切なきっかけですから、そのこと自体はステキなことだと思います。けれども、気にしすぎて、悩んでいるとしたら、その答えは間違いかも知れません。スタイルが、悩みの種になっているということは、答えの出し方に問題があるのだと思います。
●中間期末試験のことを考えてください。どんな答えでも正解になるわけではありません。いちばんふさわしい答えだけが、○をつけてもらえるわけです。あなたが自分で出した答えが、不満だらけの答えだとしたら、その時は違う考え方から出発して、自分で満足できる答えを見つけていくことにしましょう。
●例えばスタイルに不満があるとしたら、それは、答えの出し方がよくないのだと思ってください。「細い=正解」と思い込んでしまうから悩む。でしょ?あなたが幸せになれる、ありのままを受け入れる答えの出し方を探せば、きっとスタイル問題は無事に解決できると思います。

●次に、「話し方」の問題で答えを探してみましょう。皆さんの中で、話し方をとても気にしている人がいるでしょうか。実際に手を挙げなくてもいいですから、「私は下手です」「苦手です」と思っている人は、心の中で手を挙げてみてください。
●(一呼吸置いて)三人ほど正直に手を挙げてくれました。というのはウソです。たぶんこの問題も、気にしている人・悩んでいる人がいるだろうと思います。二つの悩みを取り上げてみます。一つは、発音・発声で悩んでいる人、もう一つは「話すのが遅い」と言われて仲間外しされる人です。
●中田神父は、少し「話すのが遅い」タイプです。のろまと言われたことはありませんが、電話の応対をしているときに、「もしもし、聞いてますか」と言われることはよくあります。ていねいに話を聞こうとしているだけなのですが、せっかちな人が多いのか分かりませんが、「もしもし?」と言われるんです。ちょっと、ムッとすることもあります。
●けれどもある時、私の話す速さを必要としている人もいることが分かって、救われたなあと思ったことがあります。電話で相談してきた人だったのですが、その人はこれまでの生活でとても疲れていた方でした。その人も、話すのが少し遅い人で、みんながどんどん次の話、次の話と進むので、いつも疲れてしまっていたのだそうです。
●けれども、太田尾教会の中田神父にたまたま相談するために電話をしたときに、「ゆっくり話す神父様がいてくれて、私は安心しました」と言われたのです。「遅い・のろまだ」中田神父は少しコンプレックスを感じていました。そのころの私は、話が遅い自分を悪く思っていた、良い答えを出すことができなかったのです。
●でも、ゆっくり話してくれる人が、ある人にとっては癒しになることがあると分かったときに、私は自分のことを悪く思わないことにしました。その時から、私は自分の話し方について、「良い答え」を出せるようになったと感じました。ありのままの私で生きていこう。ありのままの私を理解してくれる人と出会える日がいつかきっと来る。そう思うようにしたのです。
●発音・発声については、自分の話している言葉を、自分で聞いてみることがいちばん役に立つと思います。自分で聞いてみて、納得できるか、いや、もっと良くなるはずと思うか、まずは自分で考えてみましょう。それから自分で自分に答えを出してみたらよいと思います。「私の今の話し方は、とても聞きづらい。もっと聞きやすくしなきゃ」「私の話し方は、これで精一杯です。ありのままの私で行きます」こんな答えの出し方をすれば、あなたなりに納得できるのではないでしょうか。
●「何とかしなきゃ」そう思ったならば、繰り返し、自分の話し方が好きになるまで、自分の声を聞くことです。「もうこれで精一杯」そう思ったならば、私の話し方を理解してくれる人、好きになってくれる人がきっと見つかる、そう信じて前を見て生きていけばよいと思います。
●誰か、あなたの話し方を笑う人がいるかも知れません。それは、とても悲しいことですが、あなたの信じている答えを曲げないでください。「私は今の話し方が精一杯です。このまま生きていきます」信念を持って歩いていけば、きっとあなたを理解してくれるステキな人たちと出会えると思います。
●ちょっぴり話し方に納得できていない人は、もう少し努力してみよう、その積み重ねを続けてください。努力し続けるあなたを理解してくれる人と、きっと出会う日がやって来ると思います。今まで悩んでいたこと・気にしていたことは、たぶん、答えの出し方が間違っていたのかも知れません。答えの出し方をもう一回考えてみることが、自分を変える大きなチャンスになると思います。

●最後に、「性格」の問題について考えてみましょう。あなたが性格で悩んでいるのは、どんな理由なのでしょうか。ただ「性格が悪い」というだけでは、きちんとした答えは出ていないと思います。「素直な性格」「素直じゃない・曲がった性格」というのはいくらか答えになっていますが、それでも「素直じゃない=性格が悪い」と決めつけることはできないと思います。
●私は、すぐに人をからかう癖があります。たぶんこれは自分の性格と関係があると思っています。私がからかったことで、気を悪くして、私を嫌いになる人もいます。
●ついこの前のことです。ずいぶん年配の女性の方でした。ある食事に私もその人も招待されていて、そこに「ヒラメ」と「カレイ」の魚拓が飾られていました。魚拓って、分かりますか?その年配の女性は、「ヒラメ」と「カレイ」の区別の仕方を知らなかったみたいで、友達に尋ねていたんです(ちなみに、「左ヒラメ・右カレイ」です)。知らない人をついからかいたくなって、こんなことを言ってしまったんです。
●「お母さん、ヒラメとカレイの見分け方を教えようか。ヒラメは調理したらヒラメだけ運んでくるけど、カレイは必ずご飯といっしょに運んでくるんですよ。だから、ご飯といっしょに出てきたら、それはカレイ、ご飯が付いてなかったら、それはヒラメ。分かりやすいでしょ?」と言ったんです。皆さんは私がどこでそのお母さんをからかったか、分かりましたか?
●カレイとカレーライスを引っかけた、というオチです。つまんないかも知れませんね。「ご飯といっしょに運んでくる」まあだいたいこの辺で分かってもらえると思ったわけですが、その人は納得していましたね。人によっては、からかわれたことに腹を立てて、口も聞いてもらえなくなるかも知れません。
●これまでにも、同じようなことをして何人かの友達は失ってしまっただろうと思います。けれども、私をありのまま理解してくれて、受け入れてくれた人もいます。
●私は、すぐに人をからかうという癖を、悩んだことがありました。そのことで友達を失ったことがあるからです。こんな性格は変えなければならないと、すごく気にしました。けれども、そんなにがらっと人は変わるのでしょうか。たぶん、そう簡単には変わらないと思います。
●どちらかと言えば、私は「性格悪い」ほうに入ると思います。悩んだ結果、性格を入れ替えたとしましょう。そうすれば、周りの人からは「良い性格の神父様」と言われるようになるかも知れません。けれども、中田神父らしさは死んでしまうことでしょう。
●私は、こう思うことにしました。私の態度で、何人かの人を失うかも知れない。けれども、ありのままに生きてみたい。私の全体を見て、からかうという部分も含めて、理解してつきあってくれる人がきっと現れるに違いない。そう思うことにしたのです。
●「素直じゃない」性格の人もいます。まじめ「過ぎる」性格の人もいます。ありのままを受け入れましょう。ありのまま生きていきましょう。全員に理解してもらうことはできないかも知れないけれど、きっとあなたの性格を理解してくれる人がどこかにいて、いつか出会えると思います。世の中、そんなに悪いことばかりじゃありません。

●さて、一回目の話はここで終わりたいと思います。あなたには、解決すべき問題が何かあると思います。あなたは解決する力を持っています。答えを出してみようと、まずは考えましょう。出てきた答えで悩むとしたら、その答えはあなたにとって良い結果を生み出しませんから、違う見方をして、よりよい答えを探してみましょう。
●皆さんには、これからも、解決していくことが楽しくてしかたのないようなたくさんの問題が待っています。どんな難問でも取り組んでやるぞ、そんな意気込みでこれからの日々を過ごしていきましょう。中間・期末・宿題では味わえない「ドラマいっぱいの問題」に、勇気を出して取り組んでいくことにしましょう。

【2】
●この時間は、聖書を読みながら問題を解いていこうと思います。これまで考えたことのなかった問題が出てくるだろうと思います。「どんな問題でも解いてみよう」が今年のテーマですから、とにかく解いてみる。答えを出してみて、ますます「問題を解く力」を伸ばしていって欲しいと思います。
●プリントを配りました。「新約聖書」の中の、「福音書」から、3つの物語を選んでみました。どの朗読にも、考えてみたい問題を作っています。この1時間で、3つの問題にあなたの答えを出してみましょう。この1時間の中で、あなたにとってかけがえのないものが見つかったらいいなあ、と思います。
●初めに読むのは、
「『愚かな金持ち』のたとえ」(ルカ12:13-21)です。この時間も、小さなお願いをしたいと思います。私が名前を読み上げた人に、聖書の物語を読んでもらいましょう。緊張するかも知れませんのが、こんな感じで読んでください、と中田神父が少しだけ読んでみますので、それに倣って読み上げてください。

(聖書を読む)

●今読んでくれた「愚かな金持ちのたとえ」を、整理してみましょう。ある金持ちの畑が豊作になります。穫れた穀物が、倉庫に納まりそうにありません。金持ちはもっと大きな穀物倉庫を作ってすべての穀物を納め、おおいに満足しました。けれどもその晩、夢の中で神が「愚か者よ、お前の命は今日限りだ。お前が集めた物はいったいどうなるのか」と注意するのです。
●このたとえで考えて欲しいことがあります。「中学生のあなたにとって、絶対に失いたくないもの・いちばん大切なものはなんですか?」ということです。皆さんの机には、聖書を印刷したプリントのほかに、「考えるプリント1」というのがあると思います。その、(1)番に、同じ質問を書いていますので、今、あなたにとっていちばん大切なものを書いてみてください。少し考えてから、書いてみてください。
●あまり、長く考えないことにしましょう。いちばん大切なものが、すごく長く考えないと出てこないというのは、ちょっとヘンだと思います。さっと書いてもらってから、話を進めます。
●たとえ話の中では、豊かに実った作物が、金持ちにとって失いたくないものでした。新しく倉庫を作ってもいいから、いっぱい穫れた作物を失いたくなかったのです。けれども、この金持ちは命を失ってしまいました。人間にとって、もっと大切なのは、命だったのではないでしょうか。
●ある人にとっては、信頼している友達がいちばん大切かも知れません。ただし、もしものことですが、もしも、その友達が、私のせいではないけれども、離れてしまったらどうなるでしょうか。もう、目の前真っ暗で、生きていけないでしょうか?
●たとえば、なんですけれども、すごくすご〜く大好きな人ができて、その人のためだったら自分の趣味もすべて好きな人に合わせて変えることができる、どんな努力でもできる、それくらい大切な人ができたとします。楽しい時期も通ってきたし、苦しい時期も乗り越えた。これから、どんなことでも二人で乗り越えていける。それくらい信じ合っている人に巡り会えたとしましょう。
●もしも、もしもその人が、「自分のことはもう死んだと思って忘れてください」と言ってきたらどうなるでしょうか。どんなに連絡しようとしても連絡が取れなくなった。こんな体験をすることになったらどうなるでしょう。
●私だったら、その日は大声で泣くと思います。ショックで立ち直れないかも知れません。けれども、悲しくても、きっと次の日からも何とか生きていくと思います。とてもつらい。でも、生きては行けると思います。それは、あなたがもっと大切なものをまだ持っているからではないでしょうか。もっと大切なものが残ったから、生きていけるのだと思います。
●こんな体験を通ってきた人は、「私を決して見捨てない人、私から決して離れない人が欲しい。もし見つかったら、その人を失いたくない」と思うだろうと思います。だたし、人間はそう簡単ではありません。私を決して見捨てない人は、なかなか見つからないかも知れません。中田神父にとっては、信じている神様が、私を決して見捨てない方になってくれています。だから、どんなに人を失っても、どんなにものを失っても、私を決して見捨てない神様だけは失いたくないなあ、と思っています。
●こんなふうに、もう少しじっくり考えてみて、違う答えが浮かんだ人がいるかも知れません。違う答えが少し見えてきたら、もう一度、「考えるプリント1」を見てください。その、(2)番に、「もう少しじっくり考えた上で、いちばん大切なものはなんですか?」という質問がありますので、ここにも答えを出してもらいたいと思います。今は書かなくてもいいです。この時間の最後に、考えるための時間を取るつもりですので、その時じっくり考えてみましょう。今は、奇数の番号の質問だけ考えて答えを書いてもらいますので、偶数番号の答えは、もう少し待ってください。
●(2)番を考えるときに、こんなことも参考にしてみてください。「もう少しじっくり考えた上で、いちばん大切なもの」は、どんなことがあってもなくしたりしないものを選びましたか。誰からも取り上げられないものを選びましたか。そういうことも参考に、答えを絞ってみたらいいと思います。

●二つめの聖書の箇所は、「バルティマイのいやし」(マルコ10:46-52)という物語です。一つめの時と同じように聖書を読んでもらうことにしましょう。

(聖書を読んでもらう)

●バルティマイは、目が見えません。生まれたときからか、あとでそうなったのかは述べられていませんが、そのハンディのためにいろんな苦労をしなければならなくなります。当時、目が見えないということは、仕事を見つける可能性が全くなくなることを意味していました。バルティマイは、そのために道端に座って人々の憐れみを乞う生活しかできませんでした。「道端」というのは意味があると中田神父は思っています。バルティマイは、皆と同じ道路の上にいないのです。皆と同じ場所に立っていないのです。皆が当たり前に受けているものを受けられずに、はじき飛ばされている、それが、「道端に座っている」ということなのだと思います
●皆さん学校に来て、皆と同じように、同じものを受け取っています。けれども、皆さんが当たり前と思っていることを受けられない人が、実はいるということですね。不登校になった友達、戦争で逃げ回っている13歳から15歳の人たち、家庭で虐待を受けて、学校に行けない人とか。よく考えたら、はじき飛ばされて、道端に座って泣いている人がいるんです。
●イエス・キリストが近くを通りかかると聞いて、バルティマイは大勢の人が見ている中で「私を助けてください」と叫びます。
●「叫ぶ」ということで思い出したことがあります。皆さんは浜の町で、街頭募金とか、献血の協力とかで、大きな声で呼びかけたことがあるかも知れません。たくさんの人がいる中で大きな声を出すことは、かなり勇気がいります。ちょっと言うと、自分を捨てないと、声は出ないと思います。
●中田神父も、歳末助け合いとかの募金で、ショッピングセンターの前に立つことがありますが、中田神父はいつもこれくらいの声を出して呼びかけをします(募金をするときの声の大きさで)。街頭募金はだいたい2時間くらいですが、1時間超えたあたりで、私の声はいつもつぶれてしまいます。
●「迷惑」と感じる人もいると思います。ほかの福音書と見比べると、周りの人が叱りつけて黙らせようとしたとも書かれています。けれども、自分を捨てて叫ぶ人を止めることは、誰にもできません。とうとうイエス様に、イエス様の心にバルティマイの叫びは届きました。
●イエスが「何をしてほしいのか」と仰ると、「先生、見えるようになりたいのです」と答えます。奇跡が起こってバルティマイはいやされました。うわあ、すごいなあと皆さん思うかも知れませんが、中田神父は案外冷静にこの奇跡を見ています。
●目の見えない人が見えるようになること、それは誰にもできない不思議なことですが、イエス様が本当に神の子だったら、神様だったら、そんなに不思議ではないと思います。神様が、奇跡を行うことって、不思議なことだと思いますか?私はそんなに驚かなくてもいいと思います。そう思いませんか?
●じつはこの話の中で、私たちが考えなければいけないことはもっと別のところにあると思っています。それは、「バルティマイは、本当に目が見えるようになっただけなのでしょうか」ということなんです。
●もし、バルティマイのいやしが、お医者さんが治療するように、目が見えるようになったことだけだったとしたら、この物語を結びは、「その後彼は感謝のうちに日々を過ごした」というような結びになりそうなのですが、皆さん物語の最後を確かめてみてください。物語の結びには何と書いてあるでしょうか。「なお道を進まれるイエスに従った」と書かれています。
●これはどういうことなのでしょう?病気を治してもらったのだから、もうイエス様のあとをついて行く必要はないのではないでしょうか。バルティマイはそうは思わなかったようです。たぶん、「イエス様にすべてをまかせて生きよう」と決心したのだと思います。
●確かに、目が見えるようになったことはすごいことなのですが、いろいろ考えると、目が見えるようになるとほかにもすばらしいことが与えられます。バルティマイは、これからは道端に座る必要はないでしょう。ほかの人が、当たり前のように受けていたことを、自分も手に入れることができるからです。
●仕事も、自分で見つけることができるでしょう。みんなから「かわいそうにねぇ」と言われて生きる日々から、希望を持って生きる日々へと変わることができます。まとめると、バルティマイはイエス様に出会ったことで、希望のない生活から、希望に満ちた生活に造り替えてもらったということです。180度変わりました。イエス様と出会ったことで、すべてが変わった。だから、今からはイエス様にすべてついて行くことにしようと思ったわけです。
●そこで中学生の皆さんに聞いてみたいのです。「落ち込んでいるとき、あなたを希望で満たしてくれる人を知っていますか。」ひとまず、「考えるプリント1」の(3)番に、思っていることを書いてみましょう。すごーく落ち込んでいて、それでも相談に乗ってくれる人、まずはそんな人がいれば、その人のことを書いてください。名前でなくて、同じクラスのAさんとか、そういうふうに書いてみてください。両親が相談相手というときは、「両親」と書いてください。両親Aとは書きません。ちなみに、母親Bとも書きません。
●落ち込んでいるとき、相談相手がいるということは本当にありがたいと思います。私たちはたいてい、相談する相手を一人か二人は持っています。どんなに難しい願い事でも相談する、そんな信頼できる人を持っているかも知れません。ですがそれでも、すべてを相談相手に頼るわけにはいかないと思います。相手も人間、自分も人間、どちらも限界があるからです。
●「私は今落ち込んで、へこんでいるから、すべてを変えて欲しい」それは、どんなに信頼している友達でも無茶かも知れませんね。神父さんがみんなの相談相手になったとしても、すべての願いにすべてこたえることは、ちょっと無理っぽいです。
●そういう「いろんなことを相談できる相手」がいるとして、「あなたはその方に、『すべてを』相談できますか?」と尋ねたいわけです。もし、すべてを相談するのは無理だとしたら、私たちの生活には、すべてを相談できる人はいないのでしょうか?私が生きていく中で、「すべてを希望し、すべて委ねる」ことのできる方を見つけることはできないのでしょうか。
●中田神父は、一つの答えとして、このことを皆さんに伝えたいと思います。もちろん私の立場を踏まえての答えなのですが、すべてを相談できる方がいらっしゃるとしたら、それは神様ではないでしょうか。神様と呼ぶ方を信じていないなら、この世のものではない、見えない方がいらっしゃるのではないでしょうか。

●ここまで、考えてきたことは二つです。あなたにとって、いちばん大切なものはなんでしょうか、どんなことでも相談できる相手・すべてを良い方に変えてくれる方はいるでしょうか、ということでした。
●最後に考えてもらうことは、すべての希望がなくなったとき、それでも生きていけるでしょうかという「究極の」問題を考えることにしています。もう一回繰り返します。すべての希望がなくなったとき、それでも生きていけるでしょうか。まずは、今の気持ちを書いてもらうことにしましょう。(5)番に、素直な気持ちを書いてみてください。
●中学生にこんなこと考えさせる意味があるのでしょうか?もしかしたら、考えても意味のないことかも知れません。ですが、中田神父の頭にはあることが引っかかっていて、その思いがこの最後の問題を解いてもらいたいきっかけとなっています。中田神父の頭にある思い、それは、中学生にとっても、「まったく希望のない状態」というのはあり得るのではないかなあ、ということです。
●残念なことですが、中学生の時代に、「もう生きていても仕方ないかなあ」と思う人がいることは、ときどきニュースで流れる悲しい事件を通して聞こえてきます。どうして?と思うけれども、ニュースを聞いている私たちからは説明できない苦しみ・つらさがあったのでしょうし、事件に巻き込まれたりいじめで命を絶つ中学生もどこかにいて泣いているのでしょうから、もう生きていても仕方ないよなあ、と思っている人がいるのかも知れません。
●そんなことをときどき耳にするたびに、できればどこかで「あなたはまったく希望がないと思っているけれど、そうじゃないよ」というメッセージを送ってあげたいと思うわけです。そこでこの時間の「最後の問い」として、イエス様と出会って変えられた母親の物語を通して、いっしょに考える時間を作りたいなあと思いました。

(福音書朗読「やもめの息子を生き返らせる」)

「やもめの息子を生き返らせる」(ルカ7:11-17)この話は、物語としてはシンプルです。ある若者が棺に納められ、埋葬されようとしていました。その母親はやもめであって、埋葬される息子は一人息子です。イエス様はこの母親に、「もう泣かなくともよい」と仰って、若者を生き返らせ、母親に返すという話です。話はシンプルなのですが、ここには「希望」について深く考えさせる内容が含まれています。
●説明に入っていきたいと思います。「やもめ」それは夫を亡くし、そのことで生活の支えを失っている女性です。イエス様の時代には、女性が働くことは考えられませんでした。だから、社会の中でも弱い立場におかれ、彼女たちを食い物にする悪い人たちもうようよしていたわけです。
●この母親にとって、一人息子は大切な子でした。どれくらい大切だったか、言葉で表すと、「たった一つの希望」そして同時に「すべての希望」でした。その、一人息子を失ったのですから、お母さんは、「すべてを失い、一切の希望を断たれた」わけです。
●その様子をじっと見ていたイエス様が「もう泣かなくともよい」と仰います。正直に話しますが、中田神父が同じお母さんに出会ったら、「もう泣かなくともよい」とは言えません。泣かなくてもいいようにできるなら、「泣かないで」と言いますが、私には無理です。絶対無理。
●それなのに、イエス様は「もう泣かなくともよい」と仰いました。どれだけ泣いても消えないほどの悲しみに突き落とされた女性に、「もう泣かなくともよい」と声をかけます。もし、今の悲しみを消してくださるほどの喜びを与えることができなければ、イエス様は無責任なことを言っていることにならないでしょうか。
●当然イエス様は責任を持ってくださいます。あのお母さんの悲しみを消すことができるのは一つだけ、一人息子を生き返らせることしかありません。イエス様は、その通り、一人息子を生き返らせ、母親に返してくださいました。それは、お母さんにとって、一人息子が戻っただけではなくて、すべての希望を返していただいたのと同じだったのではないでしょうか。
●そこで最後の問題を解いてみましょう。「すべての希望がなくなったとき、それでもあなたは生きていけるでしょうか?」いちばん大切だと思っているものを失うこともあるでしょう。どんなことでも、信頼して相談できると思っていた人に裏切られることがあるかも知れません。そしてさらに、すべての希望を取り上げられてしまったら、もう生きては行けないと思うのかも知れなませんね。
●「私はそこまで苦しくなったことはないから」と、思うかも知れません。けれども、同じ中学生という輝かしい時代に、すでにそこまで追い詰められるような人も、時としているわけです。
●皆さんが、そこまでの苦しみを体験したことがなかったら、あなたには、もう少しエネルギーがあるということです。誰かを元気づけるエネルギーが、残っているのです。だったら、苦しんでいる友達を助ける人であって欲しい、友達が、もうダメかも知れないと思う前に、あなたは生きていいんだよ、あなたのことを私は覚えているよと、声をかける人になって欲しいのです。
●中田神父にとって、イエス様はすべての希望を失ったときでも、それでも希望を与えてくださる方です。今まで何度か、もうダメだ、と思ったときに助けてもらいました。そして福音書のあちこちで、希望のない人に希望を与えてくださった話を読み、自分でも考えてみて、これほど希望を奪われていても、イエス様は希望を取り戻してくださった。だったら私は、明日も生きていける、そう思うことがありました。
●ここにいらっしゃる皆さんは、それぞれ、信じている宗教も違うし、もしかしたら、神様を信じていない人もいるかも知れません。神様を信じないで、この世界だけを信じているかも知れません。あなたの信念をこわすつもりはありませんが、あなたが信じたり、考えている範囲で、「すべての希望がなくなったとき、それでも生きていく力を与えてくれる」そんな方を知っているなら、幸せだと思います。
●ときどき、人間は弱さのために「もうダメだ」と思ってしまうものです。もうダメだと思って、それでも布団に入ってぐっすり眠れる人はいいですが、絶望して、生きていても仕方ないと思う人がいる。もしその人が、「それでも生きていける」という体験をしていたら、明日も生きていけると思うのです。そして今日、ここにいらっしゃる皆さんは、「明日も生きていけるんだ」その体験を少し味わうことができたのではないかなあ、と思っています。

●繰り返しになりますが、ここで考えた問題の答えを見つけた人に、一つのお願いをしたいと思います。それは、今日みんなで考えたことに、まだ答えを見つけていない人がたくさんいることを知っておいて欲しいのです。そして、まだ答えを見つけることのできない多くの人のために、あなたは生活を通して「生きた答え」になってください。
●「すごーく落ち込んだこともあるけれども、私はそれでも生きていけると思うよ」「どんなにたくさんのものを失っても、決して失うことのないものを私は中学生の時に学んだんだよ」こんな話を誰かにできたら、一生涯のうちに一度でもいいからこんな励ましで誰かを生き返らせることができたら、神様はあなたに天国の報いを用意してくださると思います。
●純心中学校の3年生の皆さん、皆さんはこれまで学校でたくさんの問題をこなし、答えを出してきていました。一回のテストで出る問題は、何十問もあることでしょう。今日中田神父さんが出した問題は、全部で六問です。簡単!ではないですが、どんな答えでも、中田神父さんは皆さんの答えを尊重します。しっかり考えて、あなたの答え、あなたらしい答えを出してみてください。皆さんの解いた答えを、楽しみにしたいと思います。

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