主日の福音04/12/26
聖家族の祝日(マタイ2:19-23)
家族の安心は神から来る
今日は聖家族の祝日です。御降誕の直後の日曜日にこの祝日は回ってきます。今日の朗読から、家族を支えてくださる神の力強い働きについて学ぶことにいたしましょう。
身内の話で大変恐縮なのですが、家族と言えばやはり私も実の家族のことを思い浮かべます。いろんなことがあった中で、いちばん印象に残っているのは父親が漁師の仕事をやめて肉牛を飼うようになったときのことが忘れられません。
はじめは家族の誰からも賛成してもらえなかったのではないかと思いますが、五年、十年と努力していくうちに軌道に乗っていきました。人としての努力も惜しまなかったとは思いますが、私はそれ以上に、遠洋漁業の漁師の頃は平日のミサに行くなどということは決して考えられなかったのに、毎日ミサに行くようになったことが新鮮に映りました。
直接聞いたわけではないので真実のほどは分かりませんが、毎日ミサに行くようになったのは当時神学生だった私のことを考えて信仰的な環境を作ろうとの思いがあったのかも知れません。それと同時に、やはり私は慣れない仕事にかかる重圧を、日々のミサ拝聴を通して捧げていたのではないかなあと思います。もっと分かりやすく言えば、新しい仕事が成功するように、毎日のミサで祈っていたのかも知れません。
両方の思いでミサにあずかったのではないかと思う理由はもう一つあります。私自身の中に、どうせ何かをするなら二重三重に役立つような方法を考えようという傾向があるのですが、おそらくそれは両親から受けついだものであって、もともと父親がそのような傾向にあったのではないかなあと自分を振り返りながら思うのです。まあ、最後まで尋ねることはないと思いますが。
前置きが長くなりましたが、家族はあるとき大胆に行動に打って出るときがあります。与えられた朗読は、聖家族がエジプトに避難する出来事でした。主の天使が夢でヨセフに現れて、エジプトに逃げるように指示します。ヨセフは時を置かずにすぐに行動します。頼もしいヨセフの行動力に感心します。
私はこのヨセフの機敏な行動を読みながら、かつてのアブラハムの姿が思い浮かびました。アブラハムもまた、神から故郷を離れ、神が示す土地へ行きなさいと言われて、使徒パウロの言葉を借りれば、「行き先も知らずに出発した」(ヘブライ11・8)とあります。
出産直後のか弱いマリアと、生後間もない幼子を抱えての長旅は、想像しただけでも危険な旅です。人間の知恵で考えれば、危険すぎるとさえ思われました。それでも果敢に行動したヨセフの態度には、何かはっきりした覚悟があったに違いありません。
一度ならず二度までも、ヨセフは突然の旅支度を命じられます。今度は避難先のエジプトから、もといたイスラエルの地に帰りなさいと言うのです。この時も、主の天使がヨセフの夢枕に立って出発を促したのでした。ヨセフはやはりこの時も、勇敢に行動したのです。
私はまず、ヨセフの勇気ある行動に注目したいと思います。何らかのかたちで家族を抱えている私たちは、ある時その家族を守るために行動を起こす必要が出てきます。経験が教えることは、世の中で行動を起こすという場合は、たいてい遅く行動するよりも先に行動するほうが良い結果につながるものです。ヨセフは経験が教える通り、すぐに行動を起こしたのだと思います。
ただし、ヨセフの振る舞いに、もう一つの点を見落としてはいけないと思います。それは、「神の勧めに従順であった」ということです。ヨセフ本人が、すぐに行動する賢さを備えていたことは間違いのないことですが、このヨセフに覚悟を決めさせたのは、実は神の呼びかけ、心に語りかける神の声だったのではないでしょうか。
朗読されたマタイの記事は、二度とも主の天使がヨセフの夢枕に立ち、勧めを与え、ヨセフはその勧めに従ってすぐに行動したことになっています。ヨセフが心に語りかける神の声にすぐさま答えたのだということが、強調されているのではないでしょうか。ヨセフに覚悟を決めさせたのは何よりも心に響いた神の声だったということです。
聖家族の体験は、私たちにもそのまま当てはまります。いろんな意味で家族を抱える私たちは、誰かがヨセフの果たした役割を引き受けて、早めに行動を起こし、家族を守る必要があります。これが、一つ目の点です。
家族と言いましたが、何か決まり切った形だけに囚われる必要はありません。中田神父がまず頭に浮かんだのは、修道院のような共同生活をしている方々も、家族だと思います。その中で、ある時はヨセフのような役割を引き受けて、早めの行動を起こすわけです。
小教区もまた一つの家族です。いろんな人が集まっていながら、実は「神の家族」です。そうであれば、誰かがヨセフの役を引き受けて、神の家族のために早めに行動するのです。ある時はエジプトまでの長い旅を決断したように、大胆に行動に打って出る必要もあると思います。そしてしばしば、小教区でヨセフの役を引き受けるのは主任司祭だと思います。
聖家族に見習うもう一つの点は、ヨセフの覚悟の源が心に響いた神の声であったように、私たちが行動を起こすとき、決断と行動の源は内なる神の声だということです。神が心に語りかけ、その声に私たちが信頼して行動を起こすとき、どんなに大胆な行動であっても、家族は力を合わせて向かっていくことができるし、神もまた家族を見守ってくださいます。
では、私たちが行動に打って出るときに、そのきっかけが神からの勧めに従ったものであるかどうか、どのようにして知ることができるのでしょうか。主の使いがヨセフの夢に現れたように、明らかな形で神は私の心に語りかけ、きっかけを与えてくださるのでしょうか。
多くの場合は、夢枕に立つようなはっきりした形は取らないだろうと思います。それでも私はあえて、心に語りかける神の声をよく聞いてから、行動を起こしなさいと、勧めたいと思います。どうすればよいのでしょうか。
声を聞くことはできないかも知れませんが、信頼できる人に聞くことはできると思います。中でも、信仰に土台を置いて物事を考える人に相談すれば、神の勧めであるかどうか、十分判断できると思います。家族のことを考えてこうしようと思っている。信頼しているあの人に相談してみたら、きっとそれは、神様があなたを動かしてくれていると励ましてくれた。そのような計画であれば、勇気を持って行動を起こしてみてはいかがでしょうか。
今日の朗読福音書であるマタイ福音書の別の場所には、次のような言葉も記されています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18・20)。この「二人または三人」という表現は、家族ととらえても良いのではないでしょうか。家族が祈りの中で行動を起こそうと決断するとき、神は心に語りかけてあなたを見守ってくださるのです。
また信頼している人に尋ねる時、そこには「二人または三人」で祈る姿ができあがるのです。あなたが信頼している人に相談し、相談相手が「神様に信頼してやってごらん」と言ってくれるなら、神はそこにとどまっておられるのではないでしょうか。
時に私たちは、大胆な行動・機敏な動きが求められます。神の家族が行動に打って出る根拠・力の源は、心に語りかける神から来ることを忘れず、常に前進していきたいものです。
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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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