主日の福音04/12/25
主の降誕・日中(ヨハネ1:1-18)
神のみことばは人間を祝福する

昨晩から私たちは主の降誕をお祝いしておりますが、聖書と典礼を毎週ためておられる方は次のことを確認してください。昨晩の聖書と典礼には「主の降誕(夜半)」というタイトルだったと思います。そして、今日のパンフレットには「主の降誕(日中)」と記されています。

そこではっきり分かることは、最も大切な祝祭日の場合、教会は前の日から祝うということです。主の降誕と、復活の主日がそうです。主の降誕についてもう少し付け加えると、昨晩二十四日の聖書と典礼に、「主の降誕(夜半)」と書いてあったのは意味がありまして、本来は、夜半に捧げるべきミサだということです。その伝統を、教会は手放したわけではありませんと、タイトルを通して伝えようと工夫しております。

正直に言いますと、夜の7時とか夜9時は、夜半とは言わないのではないかなあと思っています。もちろん、教会の事情によって夜半にミサを捧げることが難しい場合もあると思いますので、私たちが捧げた時間も許されてはいます。何が何でも夜半でなければいけないということではありません。

それから二十五日の聖書と典礼には「日中」と記されているわけですが、実はもう一つの時間「主の降誕(早朝)」というのがありまして、典礼を区別するために「主の降誕(日中)」と書かれています。夜半のミサ、早朝のミサ、日中のミサ、それぞれが用いられる朗読聖書が違いますし、祈願文といって司祭が「祈りましょう」と唱えている部分もそれぞれ違っています。

どの時間に捧げるかということまで厳密に指定しているのは、主の降誕と復活の主日だけに際立った特徴です。ちなみに、今日のこの時間帯(朝六時半のミサと八時のミサ)は早起きしない私は早朝だと思うのですが、とあるシスターから「六時過ぎたら日中に決まってるでしょ〜」と言われてしまいました。ある一定の年齢になると、六時半や八時は日中ということになるのでしょうか。

さて、朗読された福音は、ヨハネ福音書です。昨晩の朗読箇所は馬小屋におられる幼子のことが具体的に書かれていたのに、今日のヨハネ福音書になると「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)と、まるっきり抽象的な表現で神の独り子の受肉を語ります。抽象的な朗読から説教するのはちょっと苦手だなあと思いつつも、ここ数日奮闘した結果を、皆さんと分かち合いたいと思います。

ヨハネは、冒頭で「万物は言(ことば)によって成った」と述べています。これは、天地万物を神が創造されたことに触れている箇所です。「光あれ」と神が言葉をかけると、そこに光が現れ、闇と光が区別されました。あの、何もないところから万物を生み出された神の偉大なわざをたたえている箇所です。

ただ、今日のこの典礼の中では、もうちょっと別のことを学ぶ必要があると思います。何か、クリスマスの季節にふさわしいものと結びつける工夫をしてみましょう。特に、言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」この独り子の受肉をもう少し具体的に思い描くヒントを探してみましょう。

そこで考えてみたのですが、今日の朗読を教会で折々に行われる「祝福」と結びつけると少し分かりやすいかなあと思いました。皆さんもときどき教会の中で行われる祝福式に立ち会うことがあるかと思います。教会の中でと言っても、聖堂内のことばかり考える必要はありません。新しい家を祝福する、新しい墓を祝福するといったことも含めての話です。先月は「ミカエル丸」(マイボート)の祝福も行いました。こうした、身近な祝福と、今日の朗読を結びつけて話してみたいと思います。

まず、祝福はどのようにして行われるかを思い出しましょう。ほとんどの場合、司祭がその場に立ち会って祈りを唱えることで神様からの祝福が人や物に届きます。司祭が祝福の祈りを唱えると、ある意味でそれは形になるわけです。家を棟上げするときに祝福式をお願いすることがあると思います。実際に司祭が赴いて、祈りを唱えると、願っていた祝福が形になっていきます。

これは、ある程度今日の朗読と重なってくるのではないでしょうか。「言(ことば)は人となって、わたしたちの間に宿られた」。神の言葉が、人となって見える姿になってくださいました。ある程度、先の祝福の様子と重なるのではないかなあと思います。

そうであれば、私は続けてこう考えるわけです。何かの祝福の時に、司祭が言葉をかけると人や物が祝福されます。もともとは、神の言葉が人間となってくださったことにも言えるのではないでしょうか。

神の言葉は、人間となってくださいました。神の独り子が、見える姿になってくださいました。この方は、今から人間にどんなことをしてくださるのかというと、人間を救ってくださいます。神に創造されたときの本来の姿、良いもの・祝福されたものに立ち返らせてくださいます。それはつまり、万物に注がれる神の祝福が、とうとう見える形になったと私は考えたいわけです。

神は今、見える姿となって、人間を含め万物を祝福するために幼子となって現れてくださった。そうであれば、その祝福にあずかるために、私たちもみもとに近づこうと自然に思うのではないでしょうか。

ところが、心を閉ざした人間はそのような気持ちになれませんでした。ヘロデ王はこの幼子に敵意を抱きます。万物を祝福する王が生まれたのに、みずからの位を奪われると恐れたのです。ひれ伏して拝むなら、この世の王としての祝福をいただくことができたかも知れません。それを、ヘロデは拒み、命を狙います。

私たちはどちらを選ぶのでしょうか。祝福する方に近づこうと思うのですか、遠ざかろうとするのですか。今心にある態度は、おそらくこれからもずっと繰り返されていくでしょう。あなたが決めた態度に、間違いはありませんか。

祝福は、幼子という見える形になって現れてくださいました。幼子の前にひざまづいて、私はあなたにひんぱんに近づきながら日々を過ごしてまいりますと申し上げましょう。これまで正反対の態度を取っていたならば、きっぱりと態度を改める勇気を、幼子の前で願うことにしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖家族
(マタイ2:19-23)
‥‥‥†‥‥‥‥