主日の福音04/12/19
待降節第4主日(マタイ1:18-24)
救い主誕生にヨセフも欠かせません

馬込教会での話です。土曜日の朝ミサで、集まった方々に宿題を出していました。答えは分かったでしょうか。とりあえずどんな問題を出したのかも含めて、おさらいしてみることにしましょう。

私が出した問題は、救い主誕生の知らせを大天使ガブリエルが知らせに行くのですが、その様子がマタイ福音書の書き残した話とルカ福音書が書き残した話ではかなり違っているのですが、どこがどう違うのでしょうか、という問題でした。

高齢者にも子どもにも親切ていねいな中田神父です。答えを聞くために誰かに当てたりしないで、詳しく説明しましょう。土曜日と、本日日曜日繰り返して朗読されたマタイ福音書の記録では、主の天使はヨセフの夢枕に現れたことになっています。

これが、ルカ福音書の記録では天使はマリアのところに遣わされ、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(ルカ1章28節)と語りかけるのです。今日朗読されているマタイ福音書ではヨセフの夢枕に現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と声をかけ、ルカではマリア様に語りかけました。

天使が救い主の誕生を知らせに来たことを物語として残す、この一つ取ってもこれだけ書き方が違っているのですね。私の理解は、天使はどちらにも語りかけ、マタイはヨセフの体験を書き残し、ルカはマリアの体験を書き残したのだろうと考えています。

皆さんにとって、天使が救い主の誕生を知らせに来たこと、これは聖書の常識として十分承知していることだろうと思います。承知していましたが、一方の福音書はヨセフに語りかけた、もう一方の福音書はマリアに語りかけた、この違いは、もしかしたらご存知なかったかも知れません。感心し、驚く出来事は、案外足元にあるものです。

次に、今日朗読しているマタイによる救い主誕生の次第について、一つ興味深い点を取り上げて今週の学びに当てていきたいと思います。それは、先ほどから指摘している主の天使が夢に現れたヨセフの人柄についてです。私には、大変興味深く思われましたので、皆さんと分かち合っていきたいと思います。

今日の朗読の中に、ヨセフの人柄を思わせる言い回しが一つ記されています。それは、「ヨセフは正しい人であった」(19節参照)というひと言です。具体的に、どんな様子をこのひと言に込めようとしているのでしょうか。いっしょに考えてみましょう。

いわゆる「正しい人」は世の中にもいると思います。テレビを見る限り正しくない人がうようよしている気もしますが、それでも、正しい人を思い描くことは今の時代にあってもそんなに難しいことではないと思います。

私は、「正しい人」に当てはまる種類の人が二通りいると思っています。それは、与えられた掟を守り、規則から逸れない人と、正直で、生真面目な人の両方です。

例を挙げましょう。日曜日のミサに行くちょっと前だとしましょう。急に具合が悪くなり、めまいがしてきました。そこで、ミサを休みました。規則から逸れない人は、ミサに行けなくて残念だなあと思います。でも罪を犯したとまでは思いません。そして実際、罪になりません。自分で望んで行かなかったわけではないので、罪が成り立たないのです。

一方、正直で生真面目な人はどうでしょうか。具合が悪くてミサに行けなかったことをとても気にして、きっと赦しの秘跡で告白するでしょう。私が「それは罪ではない」と言っても、罪だと言い張るかも知れません。ミサ中に気が散りました、祈りのときに気が散りました。自ら望んで気を散らした、ミサにあずかるのが嫌だからほかのことをあえて考えたというわけではないのですから、中田神父の判断ではそれらは罪になり得ないのですが、正直で生真面目な人は、罪を犯したと思ってしまうのです。

それでも具合が悪くてミサに行けなかったことが罪だと仰るなら、私は二度寝して大明寺教会のミサに遅れましたと告白しなければなりません。寝坊してしまってまかないさんにたたき起こされてミサに行きましたというようなことまで、私たちは告白しなければならないのでしょうか?

そこでもう一度、ヨセフの人柄に立ち戻りましょう。ヨセフは「正しい人」だったのですが、どちらかというと、規則から逸れないという「正しい人」だったのでしょうか、正直で、生真面目な「正しい人」だったのでしょうか。

私は、「正直で、生真面目な人」だったのだろうと思います。「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)とあります。マリアを一人の女性として大切に考えるあまり、結婚を断念したのです。

規則から逸れないという考えに立てば、きちんと婚約した相手と結婚することは何の問題もないように思います。少なくとも私が同じ立場だったら、ヨセフのように悩んだりしないで迎え入れることでしょう。

私は生真面目な人間ではありませんので、ミサ中に侍者がポヤンとしていれば「なんばしよっとや」と思いますし、説教中に居眠りしている人がいれば「よくまあ眠れるもんだなあ」と思います。実際あちこちに気が向いています。でも、ミサを一生懸命捧げていると思っていますので、気が散ってしまっても罪だとは思いません。

ただし、もう一つの事実も見逃してはなりません。救い主は、この正直で生真面目と思われるヨセフの婚約者であるマリアから生まれたのです。一度は婚約者を大切に守りたいあまりに縁を切ろうとさえ思った真面目なヨセフのもとに、主の天使は遣わされたのです。掟から逸れないで暮らしていたカップルはたくさんいたでしょう。ただ一組、思い悩んで眠れないほど気を揉んでいるヨセフとマリアのカップルを、神は選ばれたのです。

私はここで、一つの考えに思い至りました。神様の大きな計画は、大丈夫大丈夫、何とかなるさあというような集まりに働きかけるのではなく、とても正直で、生真面目な人が中に含まれている集まりに働きかけるのではないかなあと思うのです。

例えばこういうことです。馬込教会は今、司祭館の建設に大きな力を注いでいるのですが、中心になって働いてくださる方が、全員「大丈夫さあ。何とかなるさあ」という人であれば、実際は何ともならなかったのではないかなあと思います。正直で、生真面目な人が含まれていて、心配しすぎるくらいに心配してくださるので、前に進んでいるのではないかなあと思います。

中心になって働く人ばかりではありません。陰になり日向になり、声をかけてくれたりお志を渡してくださる方々の中にも、正直で、生真面目、主任司祭以上に司祭館のことを心配してくださっている方が何人もいらっしゃいます。だからこそ、神の働きは十分に行き渡るのではないでしょうか。中心になって働く人の中にヨセフ様がいらっしゃるので、また、一丸となって協力してくださる皆さんの中にヨセフ様がいらっしゃるので、建物は完成に向かっているのだと思います。

ヨセフは、眠りから覚めるとマリアを迎え入れました。眠りとは、意識がぼんやりしている状態だと思います。迷いの中にあり、心配しすぎていた自分から解放されて、神様の働きに自分をすべて任せることにしました。

クリスマスを迎えようとしている今週、私たちは神様の働きを迎え入れる決意を新たにしましょう。思い悩み、生真面目に考えすぎて遠ざかる必要はありません。その気持ちは、神様に十分届いたのです。今は神の働きに心を開き、喜んで迎えましょう。神は、あなたがこれまで思い悩んできた時間の何倍も、何十倍もの喜びで、この世においでくださるからです。
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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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