主日の福音04/12/12
待降節第3主日(マタイ11:2-11)
行って、見聞きしていることを伝えなさい
12月初め、長崎のとある病院に年配の女性を見舞いに行きました。訪ねようとしている病院が初めてだったのでずいぶん苦労して探し当てたのですが、探した甲斐がありました。見舞いを果たすことそれ自体は頼まれた者としての当然の務めですが、苦労して訪ねてみるとご主人が側に付いてくれていました。
こちらに来て早八ヶ月になるというのに、この人とこの人が夫婦だったのかと、あらためて知ることができたのです。もちろん、片方ずつははっきり知っていたのですが、ここにいる二人が夫婦なんだと、今回はっきり分かりました。実は今もまだよく分からない方々がいらっしゃいます。
しばらくはこの人とこの人が夫婦だと分かるように、手を繋いで教会に来てもらうというのはどうでしょうか。いっしょに座ってもらうようにすれば、すぐに覚えることができると思うわけですが、いろいろ言っていると、相方が天国にいる人や、相方に巡り会えない人に差し障るので、この辺でこの話は終わりにしましょう。
今回お見舞いした方に限りませんが、年末に病人を訪問して聞こえてくるのは、御降誕の日には少なくとも自宅に帰りたい、帰りたいけれども帰れないというもどかしさです。先日見舞った方も、年内いっぱいには帰れそうにないということでしたが、ある施設に預けられた人は、身元を引き受けてくれるものが承諾してくれなくて、施設を出ることができないのだと自分の置かれている立場を切々と訴えてきました。
あー、この人はいつになるのか分からない退院の日を待っているのだなあと思いました。クリスマスを自宅で迎えたくて帰りたいとその日を待っているのに、自分からはそれを叶えることができない。こういった方々は、クリスマスを待つすべての人の中でも、重く受け止めたいなあと思いました。
離れた場所でしか、クリスマスを迎えることのできない人に、私たちは何かしてあげられないのでしょうか。その答えをあとで考えたいと思いますが、今週の福音朗読は、わたしの投げかけた問いに答えてくれていると思います。まずは朗読のメッセージを理解して、それから私たちの暮らしに当てはめていきましょう。
今日の朗読で洗礼者ヨハネはイエス様に次のように問いかけます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」洗礼者ヨハネはその活動を初めてから一貫して炎のような口調で人々に回心を呼びかけた人でした。その態度はヘロデ王に対しても変わらず、律法で許されていない結婚を咎めたことで投獄されていました。
この投獄された状態は、先に話した病人のように、自分からは動いてそこを出ることのできない状態です。牢を出ることができれば自分の目でイエス様のことばとわざを確かめることができたでしょう。ですがそれは叶いません。離れた場所に留め置かれている人は、私たち以上にひたすらその日を待ち望んでいるわけです。
自分のほうから動けない、その場を逃れられない人に、遠くで起こっていることを知らせるためには、どんなことができるのでしょうか。現代なら、その様子をビデオに収めて見せることもできたでしょうが、当時のことを考えれば、それは、本人が望んでいることを誰かが見届けて、ことばで伝えてあげる以外にないと思います。
ヨハネはイエス様のことを確かめたくて、自分の弟子を送り届けました。それに対してイエス様は「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と仰いました。ヨハネの弟子たちは言われた通りのことばを師匠であるヨハネに伝えました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
ヨハネはどう受け取ったのでしょうか。書かれていないことなので正確には掴めませんが、洗礼者ヨハネ自身が貫いてきた炎のような態度はどこにも見あたりません。また、ヨハネが前もって告げ知らせた「聖霊と火を携えてくる方」その「火」の部分がここからは伝わりません。もしかしたら、多少の食い違いに戸惑ったのではないでしょうか。
イエス様はそのことも十分に予見しておられたのだと思います。伝えなさいと言ったその言葉のあとに、「わたしにつまずかない人は幸いである」と仰っています(6節)。洗礼者ヨハネが思い描いていた「炎」の部分は見えないけれども、それ以上のものが実は繰り広げられていることを、イエス様はメッセージに託しておられたと思います。
遣わされたヨハネの弟子たちの目の前で繰り広げられていたこと、それはイエス様が奇跡を起こす神のことばを語り、貧しい人に福音を伝える様子でした。炎は、確かにものを焼き尽くすかも知れません。けれどもイエス様の一つひとつのことばは、「光あれ」と言って天地を創造されたときと同じ力を現していました。
「見えるようになりなさい」「立ち上がって、まっすぐに歩きなさい」「よろしい、清くなれ」・・・。奇跡を起こすイエス様のことばは、ものを焼き尽くす炎を超えていたのです。炎よりもはるかに力強い出来事が繰り広げられている。洗礼者ヨハネにとっては、もうそれで十分だったのではないでしょうか。
「行って、見聞きしていることを伝えなさい」(4節参照)。今日私は、待降節の三週目の呼びかけとしてこのことばを選びたいと思います。私たちも主の降誕を心待ちにしていますが、私たちよりも切実な思いでその日を待っている人が、たくさんいらっしゃるのだと思います。
私たちは待ち続ければ御降誕のその日にはここで喜び合うことができます。ですがある人は洗礼者ヨハネが閉じこめられてその日を目で見ることができなかったように、降誕祭のその日を、目で確かめることができないのです。ですから今週は、自分のためだけに主の降誕を待つのではなくて、遠くにいて、目で見ることのできない人たちのことも心に留めて待つ気持ちを育てて帰りたいと思います。
遠くにいる人のことを心に留めているというのであれば、当然私たちには期待されていることがあります。それは、私たちがこの目で身、耳で聞くことを、遠くにいるその人に届けてあげることです。ただ単に「クリスマスおめでとう」ではなくて、その場に居合わせることができなかったけれども、こんなに良くしてもらったので十分喜びが伝わった。そのような気配りが、一人ひとりに求められると思います。
イエス様は、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と仰いました。それは、神の偉大なわざが告げ知らされていることを伝えよということでしたが、同時に、神がこの時代の人間のそばにいてくださるのだということを伝えなさいという思いも込められていたと思います。つまり私たちも、遠くにいるあの人この人に、あなたのそばにも、イエス様が一緒にいてくださいますよという安心を届けてあげること。それが今の時代の「行って、見聞きしていることを伝えなさい」なのではないでしょうか。
どんなことが考えられるでしょうか?一つの参考を示しておきたいと思います。いくつかの教会ですでに行われていることですが、クリスマスにできるだけ近い日程で、私たちの教会に籍を置いている病人の方、寝たきりの人、教会に行きたくても行けない人を見舞ってみてはいかがでしょうか。例えばそれは婦人会でクリスマスに教会に来ることのできない会員を見舞ってあげるなどのことです。
タオルとか身の回りのちょっとしたものをプレゼントに用意して、また教会の様子を身近に感じられるような話(建設中の司祭館の話とか、高島であれば台風被害のその後の様子とか)を携えて、婦人会と教会役員とで訪ねてみる。そうすることでクリスマスに教会に来ることのできない方は、行きたくても行けないつらさや、教会から遠く離れている寂しさを味わうことなく、家族の一員として温かい雰囲気を持つことができるのではないかなあと思っています。該当する人数が多ければ、分担して回ることもできます。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3節)。今年、喜びのクリスマスを迎えられるだろうか、来年までおあずけだろうかと胸を痛めている人がどこかにいるかも知れません。そういった方々を、教会全体でちょっとでもお世話してあげる。待降節の三週目を過ごしながら、私たちのほかにも待っている人に目が向かいますようにと願いながら、主を待つ心をさらに高めていくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
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