主日の福音04/12/05
待降節第2主日(マタイ3:1-12)
その方は、聖霊と火を携えてくる

待降節の第2主日を迎えました。この週は決まって洗礼者ヨハネが登場することになっています。私自身も毎年言い続けております。毎年言い続けるので、皆さんの中で何人かは「待降節第2週は洗礼者ヨハネが鍵だ」という知識が身に付くかも知れません。

中田神父のほうは毎年決まり文句のように洗礼者ヨハネの登場する週ですと言い続けるわけで、これを同じ方々に言い続けるというのはちょっと難しいかも知れません。そういう意味では、一定の期間で転勤させてもらうということは、司祭にとってはありがたいことです。きっと今年は、そういう年だったのだろうと思います。

それではと、新天地で洗礼者ヨハネが登場する週の説教をするのだから、まったく同じ原稿を探し出してきて澄まし顔で説教をすれば準備も必要ないし結構な話だなあと、皆さんはお考えになるでしょうか。

これがそうもいきませんで、例えば三年前の説教を引っ張り出して、あたかもできたてほやほやのようなつもりで話せるかというと、そう簡単に話せるものではありません。ちなみに、まったく同じことは話さないという決意を皆さんに証明するために、後ろに三年前の説教を掲示しております。

内容的には問題ないかも知れません。ですが、当時の説教はやはりその時のその場所でないと、しっくりいかないのです。そのまま読み上げても誰も気が付かないかも知れませんが、私自身はきっと申し訳ない気持ちでいっぱいになると思います。いつもいつも同じ説教をする人がいらっしゃるとしたら、私はある意味その方を尊敬します。私にはできない芸当です。

さて、洗礼者ヨハネが荒れ野で集まった群衆に強い口調で語りかけています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(7節参照)。悔い改めを迫っているわけですが、私自身は次の言葉に目が留まりました。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3章10節)。

先週の説教でちょっと触れましたが、日曜日の福音朗読は三年すれば一周します。その気になれば、三年前の説教を引っ張り出して、ほんの少し焼き直せば、与えられた務めを果たすことができたかも知れません。けれども、それは見た目には結果が残ったとしても、「良い実を結んだか」と厳しく問われれば、良い実を結んだとは言えないと思うのです。

洗礼者ヨハネは耳を傾けるすべての人に回心の実りを求めています。中田神父に当てはめれば、毎年説教を通して何か収穫をもたらしなさいということです。同じように皆さん一人ひとりにも、斧は常に木の根元に置かれていると考えるべきです。

ただし、私たちが襟を正すのは斧に対してではありません。斧は、私たちが神と日々向き合っているのだという合図です。斧が木の根元に置かれている、ただそれだけでは何の意味もないのです。切り倒すことも含めてすべてのことが任せられている神と私たちは向き合っている。だから、襟を正す必要があるのです。

洗礼者ヨハネはさらに一歩踏み込みます。もはや、旧約の延長として救い主を待ち望む時期は過ぎたのです。そこで、より忠実に、来るべきお方の姿を示そうとします。来るべきお方は、ただ単に「斧」つまり「恐れ」を感じさせるだけではなく、聖霊と火を携えておられると言うのです。

「聖霊と火を携えている」。どういうことでしょうか。それは一方では私たちに恵みを注いでくださるお方であることを意味しています。また同時に、「焼き尽くす火」も携えているのです。私たちが暮らしの中で曖昧にしている部分を焼き尽くし、神の前に価値のないものから離れ、手を引くことを求める方です。「神の愛そのもの」である聖霊を注ぐ方であり、同時にむなしいものは焼き尽くす方を、私たちは救い主として待つのです。

聖霊を注ぎ、火で清めを行う救い主の働きがはっきり現れるのは、救い主が授けてくださる洗礼です。洗礼者ヨハネは、水で洗い清めをおこなってきたけれども、これからおいでになる救い主は、聖霊と火で洗礼をお授けになります。

そうです。救い主の洗礼は聖霊と火によるものなのです。つまり洗礼は一方では神の恵みに満たされる素晴らしい体験であり、一方では神の前に価値のないもの、忌み嫌われるものが焼き尽くされる徹底した清めなのです。実際、洗礼式の中では恵みの源である神を信じますと宣言し、焼き尽くされるべき悪と、罪のわざを退けますと宣言します。

洗礼者ヨハネが登場し、待降節も一週間過ぎました。私たちも、取るべき態度を確認して、新たな一週間を迎えたいと思います。洗礼者ヨハネは、聖霊と火による洗礼を予告したのですが、実は私たちはすでにその洗礼を受けているのです。そうであれば、恵みはおおいに受け入れ、罪のわざは退けるというはっきりとした態度を人々に証しする者であるはずです。実際、そのように振る舞ってきたのでしょうか。

今年のクリスマス、馬込教会では洗礼を受けて新しく神の家族に加えられる方がいらっしゃいます。私たちは喜んで迎えたいと思いますが、まずは私たちが、すでに聖霊と火による洗礼を受けた先輩として、これから洗礼を受ける方の手本となっているでしょうか。恵みには積極的に近づき、悪は退けるという毎日でしょうか。

恵みに近づく日々であったでしょうか。日曜日のミサや赦しの秘跡、子や孫の洗礼・堅信式、司教叙階や司祭叙階の秘跡に立ち会って見届けたり、その日心を合わせて祈ったりして、私たちは恵みに触れてきたでしょうか。

悪を退ける日々であったでしょうか。これくらいは誰も気付かない、私よりも悪い人はいくらでもいると、自分の手のわざに偽りやごまかしがなかったでしょうか。聖霊と火を携えておられる神に申し開きのできる日々を過ごして、これから神の家族に加えられる方々の良き兄弟姉妹となろうと心がけてきたでしょうか。

今週、洗礼者ヨハネは来るべき救い主を聖霊と火で洗礼を授ける方として紹介しました。クリスマスが一週間近づいた今週、聖霊と火で施された洗礼を受けた者として恥ずかしくない一週間を過ごす決意を新たにしましょう。また、新たに洗礼をお受けになる方のためにも、あわせて祈っていくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
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