主日の福音04/11/28
待降節第1主日(マタイ24:37-44)
典礼の新しい暦が始まります

待降節、救い主の降誕を待つ季節が始まりました。今日の福音朗読を黙想しながら、救い主を待つことの大切さを味わっていくことにいたしましょう。

朗読された福音は、マタイ福音書でした。これまでずっと、ルカ福音書が朗読されていたのが、今週からはっきりと切り替わりました。これは一つの節目であるということを分かっていただきたいと思います。もう少し付け加えますと、今週から三年周期(A・B・C年)の典礼のA年に入ったということになります。

具体的にどんな朗読が選ばれているかというと、「人の子が来る日」「人の子は思いがけない時に来る」という言葉からすると、キリストの再臨を述べる箇所が選ばれています。これからキリストの誕生を準備するという時に、キリストの再臨、キリストがすべてのことを成し終えて再びおいでになる日のことを取り上げるというのは場にふさわしくないような気もします。だた、あえてここが選ばれているのですから、その意味・どのようにつながるのかを考える必要があると思います。

そう考えると、キリストの誕生を待つ最初の日曜日にキリストの再臨から学ばせようとする狙いは、「緊張感をもってキリストを待つ」というふうに結びつけると分かりやすいかも知れません。キリストの再臨は、最後の最後に再びおいでになるその日なのですから、目を覚ましていなければなりません。今日の朗読のなかでも、「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と注意を呼びかけます。「用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る」ともありますから、緊張感をもってその日を心に留めておく必要があるわけです。

このような心がけを、典礼はキリストの誕生を待つ最初の日曜日に結びつけてきました。つまり主の降誕もまた、緊張感をもって待ちなさいと、言いたいのではないでしょうか。

私たちはどれくらいの時間であれば、緊張感をもって何かに備えていられるのでしょうか。私自身の経験から言えることは、私たちは一年間継続して一つのことに緊張感を保ち続けるということはまずできないと考えております。例えば、去年は誕生日や結婚記念日を忘れていて散々な目に遭ったから、来年まで一年間意識し続けて暮らそうと思っても、それは100%無理なのではないでしょうか。

もっと言いましょう。私は一つのことを緊張感をもって備え続けることができるのはギリギリ一ヶ月くらいではないかと考えています。私の考えでは、待降節が一ヶ月くらい前から始まるのも納得できます。二ヶ月も前から、私たちは一つのことを待ち続けることは難しいのです。

ここで、忘れられない一つの体験を話しておきたいと思います。中田神父は毎年4月1日に誰かにドッキリを仕掛けることにしているのですが、今年のエイプリルフール、私のドッキリにみごとにはまった方がおられました。今年の3月下旬に私は伊王島行きの転勤の辞令が届いておりましたが、転勤する日の二週間前になると正式に転勤先を発表できるようになります。

まだ4月1日は伊王島に行くということを正式に発表できない時期でしたが、転勤することだけは明らかでしたから、とある人に次のようなメールを送ったのです。「私中田神父は4月1日に任地が突然変わり、台湾の『羅天(ラオテン)』小教区の「管理者」に任命されました。英語での司牧活動になるので、しばらく語学の研修をし、9月から台湾に赴任することになります。どうもお世話になりました」。

たぶん、台湾に「羅天(ラオテン)」という小教区はないと思います。3月から、4月1日はエイプリルフールよ。誰か私に騙されてくれる人いませんか?と触れ回っていたのですが、一人だけ、私のドッキリを真に受けてくれました。このメールをまともに受け取ったその人は、私が遠くに行ってしまうことにショックを受けてその日の昼食が喉を通らなかったのだそうです。

このように私たちは、前もって何度も注意を呼びかけていても、緊張感をもって一ヶ月過ごすことさえ、難しいのです。この点をわきまえているなら、どれほどの緊張感をもってキリストの降誕を待つとしても、度を過ぎるということはないのだと分かります。ですから、典礼はキリストの再臨の箇所を朗読に選んで、最後の日を待つ時と変わらないくらいの緊張感で、今日からの待降節を過ごしなさいと呼びかけたのだと思います。

ただし、どんなことをきっかけにして緊張感を保つかは人それぞれです。こういうお題なら、私は一ヶ月の間緊張感をもってキリストの降誕を待ち続けることができる。お一人おひとり、そうしたきっかけになる出来事を一つ見つけてみてはいかがでしょうか。

二つ、紹介しておきます。もちろん私が紹介するのは例えば、ということですから、各人が何かを見つけて欲しいのですが、参考にしてみてください。

一つは、これから御降誕まで一ヶ月ありますが、この一年、一度も教会に顔を出さなかった人を一人、ミサに招待してみてはいかがでしょうか。おそらく、一年間一度も顔を見せなかった人の顔が、一人か二人は思い浮かぶのではないかと思います。その人に、私はどうして一年間声を掛けなかったのでしょうか。あるいは、声を掛けたのにどうして一年間呼びかけに答えてくれなかったのでしょうか。私に、何が足りなかったのでしょうか。そうしたことを思いながらこの待降節を過ごすなら、きっと素晴らしい緊張感を保って一ヶ月を過ごすことができるだろうと思います。

もう一つの例です。それは、あなたの家庭は、あなたの暮らしは、イエス様をお迎えするにふさわしい温かい家庭となっているでしょうか。イエス様は幼子としてこの世においでになりますが、迎え入れる私の家庭・私の暮らしが冷え切ったものであれば、幼子は居心地が悪いのではないでしょうか。

そこまで分かっているなら、一ヶ月緊張感をもって過ごすことができるはずです。もう私の家庭は温かな雰囲気が壊れ、冷え切っている。お互いにいたわり合ったり、言葉をかけることすらなくなっている。どうしてこうなったのだろうか、どうすれば、冷え切った家庭をかつての温かい家庭に修復することができるのだろうか。どうすれば、私は幼子イエス様をお迎えするのにふさわしい暮らし・ふさわしい家庭を取り戻すことができるのだろうか。

こうした考えは、きっとあなたを適度な緊張感で一ヶ月保ってくれるに違いありません。あなた自身・あなたの家庭に問題がなくても、誰かそのような危機に立たされている人を知っているなら、その人のことを心に留めて過ごしましょう。そうして、緊張感をもって、キリストの誕生のその日に備えたいと思います。私たちがお迎えしようとしている幼子は、それだけの努力に見合う「救い主」なのですから。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥