主日の福音04/11/21
王であるキリスト(ルカ23:5-43)
私たちは、あなたが王であることに賛成です

今日、ミサの始まりのために、中田神父は侍者を伴って中央通路を通って入堂しました。少し今日のミサは違うなあ、ということを皆さんに意識してもらうためです。実際特別な日曜日でして、今日は教会のカレンダーの中でいちばん最後の日曜日、教会の一年の締めくくりの日曜日になっています。

また、「王であるキリスト」という、特別な名前が付けられた日曜日でもありますので、今日の日曜日にどんな意味合いがあるのか、ということから話を始めたいと思います。

この、「王であるキリスト」の祭日は、クリスマスの週から一ヶ月前、十一月に入ってからは三週目、そのあたりに当てられています。教会のカレンダーの中では一年の最後の日曜日ですから、私は神様の前でどんな一年を過ごしたのだろうかと、振り返る一週間です。

同時に、クリスマスの週を意識して考えればクリスマスまであと一ヶ月ですから、来週から始まる待降節、それは同時に来週から新しい暦が始まるという意味でもありますが、この待降節をどんな心構えで迎えようかと思いを巡らすことも必要になってきます。

どちらにしても、「今週も来週もたいして変わりませんよ」というような気持ちではなくて、一年の締めくくりの一週間、新たな教会の暦に移る直前の一週間として、少し意識して過ごして頂きたいと思います。

次に、この締めくくりの日曜日には、「王であるキリスト」という名前が付けられました。特別な名前が付けられた日曜日なのですから、付けられている名前から、今日の日曜日を考えることができます。「王であるキリスト」、いったいどのように考えればよいのでしょうか。

そこへたどり着く一つの例として、私たちの暮らしに身近な事柄でまずは考えてみましょう。私たちは行政の長や、その地域・国の責任者を、どのように決めているのでしょうか。私たちが暮らす社会の中では、ほとんどの場合何かの方法で指名・選挙して、行政の長や責任者を選んでいるのではないかと思います。

各人この人がいいと思うという人に一票を投じるとか、手を挙げるとか、そうした行為によって長となる人、責任者を選んでいるはずです。それでは、今日私たちが本題として考えようとしている「王」は、どのようにして選ばれるのでしょうか、どのように決まるものなのでしょうか。

私たちの暮らしでは、「王」は身近には感じられないかも知れません。ですがアジアの国々の中には、王を頂いている国はめずらしくありません。また、ヨーロッパでも伝統が生きています。私たちのカトリック教会でも、教皇様・ローマ法王がいらっしゃるわけですから、まったく縁遠いものではありません。

一般に国王は、どのように選ばれるかというと、それは、初代の王が選ばれたあとは、後継者を国民が選挙で選ぶのではなく、王家の血筋を引く者がその位を受け継ぐわけです。選挙ではありません。

では国民は、王が選ばれることにまったく関わることはないのでしょうか。ある人が王となるために、国民は何も役割を果たすことはないのでしょうか。私は、そうではないと思います。王が選ばれた時、新しい王が即位した時、国民はその王に賛成か反対かの手を挙げることができるのではないでしょうか。

つまり、民は王を選ぶことはできませんが、王を受け入れますという意志を、表明することができるわけです。逆に、私は反対ですという意思表示もできます。国民が、賛成の意志を表すこと。これが、私はある意味王を王としている大切な部分ではないかなあと思っているわけです。

今日の朗読をあらためて考えてみましょう。イエス様と二人の強盗が、十字架に架けられています。議員たちはイエス様をあざ笑います。兵士もイエス様を侮辱します。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。犯罪人の一人も、イエス様をののしりました。こうした態度は、イエス様が王であることにある意味反対しているわけです。「私は、あなたを王として認めません。」

その中で、もう一人の犯罪人が取った態度は際立っています。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23:42)。彼は、はっきりと自分の口で、あなたが王であることに賛成です、あなたを王として私は受け入れますと、表明したのだと思います。

自分自身は、このまま磔になって死んでいく。そしてイエス様も、罪がないのに犯罪人と同じ死に方で死んでいく。見た目には惨めな姿であるにもかかわらず、一方の犯罪人はイエスを王として受け入れたのです。

人間の目からどう見えていようとも、神の前でイエスが王であることに変わりはありません。人間が誰一人イエスを王と認めないとしても、です。それは王家の子どもが王子・王女であることと何ら変わりません。ただ、この十字架のむごい場面でまことの王を王と認めた人間が一人いたことに意味があると思うのです。

王は、正当な形で身分を得ていれば自動的に王に違いありませんが、民がその王に賛成と手を挙げる、意思表示をすることで、王の輝きはさらに増し加わるのです。そう考える時、私はこの一年イエス様にどのような意思表示をしてきたのでしょうか。この点がまずは問われると思います。

私は、今週で締めくくりとなる教会の一年の中で、イエスを王として認め、それを態度に表してきたのでしょうか。それとも、私はあなたを王として迎えたくありませんと、言い続けた一年だったのでしょうか。

私は何も、難しいことを求めているのではありません。イエスが私たち人間の王であるならば、王に失礼となるような言葉や態度は取らないはずです。王であるキリストが、日々の暮らしの中で国民であるあなた方に会いたいと言うとき、私は会いたくありませんとは言わないはずなのです。

それは具体的には、日曜日のミサです。王であるキリストは、この場所であなたと会いたいのですが、もし私たちが理由もなく席を外すならどうなるでしょうか。そんなことをすれば、私たちは態度で「あなたにあいさつしている暇などありません」と言っているようなものではないでしょうか。そうして私は、イエスが王であることに反対票を投じていることになるのではないでしょうか。

過ぎた一年を、よくよく考えてみましょう。私は、イエス様が会いたいという場所に喜んでまいります。イエス様とお目にかかれるいろんな場所に、できるだけ足を運びますという意志を態度に表してきたのでしょうか。

それは、復活祭やクリスマスなどの大祝日に当てはめることもできるでしょうし、黙想会や赦しの秘跡にも当てはまると思います。じっくり、イエス様の照らし・導き・癒しにあずかれる場所があるのに、そこには行きたくないと言えば、「イエス様あなたはわたしの生活にとって重荷です」と言っているようなものだと思います。

自分自身、この一年を振り返ることにいたしましょう。そして、来週から始まる新しい教会の一年に、反省を十分に生かしたいと思います。「これからは、私はあなたを王としてお迎えします。王の導きをいただくために、聖体の恵み・赦しの恵みに近づきます。生活の中で祈りを忘れず、王であるキリストに感謝を忘れません」と、新たな決心をもって来週からの待降節に移っていきたいと思います。

中田神父の見るところ、この半年ちょっとで皆さんは見違えるようになったと思っています。聞くところによると、お父さん方が先を争ってミサにくるようになったということです。お母さん方が「気に入った席がなくなるから早めに行こう」というのは聞いたことがありますが、神父になって十二年、お父さん方がそのような心がけで教会に来ているというような教会は、聞いたことがありません。

また、土日の教会受付のつとめに、「うちのお父さんも中に入れてください」とか、「自分もやってみたいものだなあ」と、積極的に関わってくださっているという話も聞きました。あんまりお父さんたちがまじめになって、私はうかうか釣りに行ったりできなくなるのではないかと心配しております。

どうぞこれからも、私は王であるキリストに導かれている人間ですという思いを、言葉や態度で表し続けましょう。キリストは私たちの態度に左右されず人類の王であり続けますが、私たちが賛成ですと態度を表明することでその輝きをいや増すことができるのです。今軌道に乗り始めたこの流れを決して途切れさせることのないように、着実に前進していきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
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