主日の福音04/11/14
年間第33主日(ルカ21:5-19)
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む

いよいよ司祭館建設にあたっての解体作業が始まりました。最初の二日間は、手作業で壊し始めましたので、手際よく作業する大工さんたちの働きぶりに感心しておりました。いよいよ本格的に解体に取りかかった三日目からは、機械が入りまして、かなりの音を響かせながら作業が始まりました。まずは、近隣の信徒の皆さんにご迷惑をおかけしていることを、私のほうからひとこと申し上げておきたいと思います。

機械が入ることは織り込み済みとは言え、うなりを上げる機械の音は想像以上でした。土地が更地になり、そこへ新しい司祭館が立ち上がる様子をいちばん近くで見守ることができるので幸せですと皆さんにお話ししたような気がしますが、機械が入ってからの一日一日は、ながーい時間に感じています。今引っ越している家の、その次に近い家にお住まいの方々にも、相当の忍耐を強いていると思います。何もできませんが、ぜひりっぱな司祭館を建設して、立派にできたなあと言える司祭館となることを心から願わずにはいられません。

精一杯、ここ数日の様子を良い方に受け止めようと言葉を並べたのですが、本当は少々弱音を吐いております。金曜日の教会学校、日曜日のミサ説教の準備と、これまでは静かな環境が与えられていたわけですが、今週はどうしてもそうはいきませんでした。本来ならここが我慢のしどころなのですが、短気な私にはどうしてもうまくいきませんでした。

ですが、こんな出来事の中にも、神様の深いご計画があるのかも知れません。今週の福音は、ちょうどのタイミングで忍耐のない私に忍耐を学ばせるために選ばれているかのようです。イエス様は話の結びとして、次のように仰います。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(21:19)。ふだんの出来事と選ばれている聖書朗読が重なっていると感じる時、何かを学んで帰らないのは愚かなことです。今週は、忍耐について学ぶことにいたしましょう。

きっと皆さんは、弱音を吐いている私など及びもつかないような忍耐を、ふだんの生活の中で経験しているに違いありません。夫婦で一つ屋根の下にいれば、いろんなことでどちらか一方は我慢している、忍耐しているということがたくさんあるのだと思います。夫婦と言いましたが、それは親と同居している場合にもあるでしょうし、子どもと暮らすなかでも気持ちよく過ごせる日ばかりではないと思います。忍耐することは数えきれず、中田神父の弱音なんてたかが知れていると感じている方もいらっしゃるでしょう。

それ程多くの場面で忍耐を強いられているのですが、私たちは果たして忍耐から何かを学んでいるのでしょうか。ある意味、いちばん多く積み上げてきている徳であるにもかかわらず、そこから学ぶことがあまりにも少ないのではないでしょうか。そこで今週は、忍耐が私たちキリスト信者をどこまでたどり着かせてくれるのか、見極めたいと思っています。

もちろん忍耐と言っても、これまでの経験から思い知らされているように、何も学べずに終わる忍耐もあり得ます。憎しみを心に抱いたまま、我慢し続けている。それも忍耐なのでしょうが、おそらくそのような忍耐は不毛なのだと思います。忍耐することで何かをいただく、イエス様に少しでも触れることができるように、要点を押さえてみましょう。

イエス様の言葉から確かに言えることは、忍耐する人は、命をかち取るということです。どんな命でしょうか。「中には殺される者もいる」(16節参照)と仰ったのです。殺されてもなおかち取ることのできる命、それは神が与えてくださる永遠の命です。滅びることのない、だれからも取り上げられることのない神の命です。詰まるところ、私たちは忍耐によって神の命をかち取るのです。永遠の命を得るのであれば、それは私たちが神と出会っていることと何ら変わらないのではないでしょうか。忍耐によって、私たちは神と触れ合うことになるのです。

これですべてですと話を終えることもできるでしょうが、忍耐のすばらしさをいろんな面から確かめることにしましょう。三つ取り上げてみたいと思います。

その一つ、まことの忍耐は、愛を現します。身近な例を上げると、誰かの介護をしている人がいるとして、お世話している人の着替えを手伝うこと一つ取り上げても、しばしば忍耐を求められます。まことの忍耐を積む人は、そこでお世話しているその人に心の中の愛を現しているのです。あるいは食事の介助をしている時でも、まことの忍耐を積むことで私は目の前の相手に、またその相手を通して神に、私の心の愛を現すことになります。

忍耐が愛を現すことが分かれば、そこから次のことも考えるに違いありません。私はこれまで介護に携わってきたけれども、愛を現すチャンスに変えてこなかった。忍耐していたけれども、私は苦しい重いだけを積み上げてきた。今日から、愛を現す忍耐へと気持ちを向けていきましょう。すぐにはそうならないかも知れませんが、まことの忍耐は、人間を救うためにあらゆることを忍耐された神の業に、参加するまたとない機会なのです。

次に、忍耐は私に示された生き方を完成させるものです。結婚生活に置かれている人、修道生活に召されている人、司祭に召された人、いろんな生き方に神は私たちを置いてくださっていますが、いずれの生き方(召命)についても、忍耐なくしてはそれぞれの道を全うすることは叶いません。キリストはそのことを身をもって示してくださいました。イエス・キリストは「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐する(エフェソ4:2)模範を残してくださったのです。こうして、人としての一生を全うして、私に倣いなさいと招いておられるのです。

忍耐せずに置かれた生き方を全うできるならどれほど楽でしょう。現実は、そんなに簡単なものではありません。どんな生き方に召されていても、たとえ他人からは暢気に暮らしているように見えても、完成するためには忍耐が必要なのです。忍耐する覚悟を持たずに逃げようとすれば、完成できずに人生を終えることになるのです。

さらに、忍耐することで私たちは真の神の子らとなります。神は人間を愛し赦し救うためにあらゆる忍耐を通ってこられたのですが、私たちがまことの忍耐を積むなら、そのままわたしたちは神に似る者となります。同時に忍耐する人は、心の柔和・謙遜なイエスの弟子となることができるのです。

これほどの高みに、忍耐は私たちを運んでくれるのです。以前も私たちは数多くのことを忍耐してきました。場合によっては我慢ならないことすら耐え忍んできたのです。ですが、なかなかそのことが私を清め、キリストに似る者となる機会に結びついていませんでした。今は違います。忍耐する時、私は一歩ずつ真の神の子、イエスの真の弟子に近づいているのです。

最後に、聖書の中でいちばん忍耐について話してくれた聖パウロの言葉を紹介しておきます。コリントの信徒への手紙(二)の引用です。少し長いですが、彼の心の叫びに耳を傾けましょう。

「だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。

苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(IIコリント11:21-27)。

先にこれほどの忍耐を積んだ人が、忍耐によって私たちをどこまで運んでくれるか、教えてくださっているのではないでしょうか。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ルカ23:5-43)
‥‥‥†‥‥‥‥