主日の福音04/11/07
年間第32主日(ルカ20:27-38)
私たちは復活を信じてここに集まります

今日私たちは、十一月死者の月の、最初の日曜日を迎えております。特に馬込教会では、亡くなられた方々の追悼を目的として、早朝8時のミサに合わせて追悼ミサを行うことにしました。初めての試みなのですが、今日のミサを機会に、カトリック教会が伝統として持っている先祖への尊敬の念と、復活への希望を信仰の中に持っていることをお互い確認すると共に、社会にも証しする者であることをあらためて思い起こす機会としたいと思います。

一つの試みとして、私たちは共同墓地を会場としてミサを捧げることになりました。中田神父は、この共同墓地に集まって人間が考える事柄は大きく二つに分かれ、一方はむなしい考えであり、もう一方の考えは希望に満ちていると思っております。その二つとは、人間は亡くなってしまえばすべてが終わるという考えと、いや、人間はこの地上の生が終わっても永遠の命への希望があり、復活の希望に繋がっていくという考えです。

仮に、人間は一度死を味わえばそれですべてが終わるとしましょう。もちろん私たちカトリック信者はそのようには考えておりませんが、仮にそういうことだとすれば、故人の永遠の安息を願うことはあまり意味がないのではないでしょうか。こうしてある決まった場所に墓地を用意し、ていねいに故人を埋葬することに、どれほどの意味があるでしょうか。亡くなってしまえばすべてが終わるのであれば、納骨しているその瞬間にも、もうその人はどこにもいないのです。ただ、この世の名残であるひからびた骨がそこにあるだけです。

一方、死後の世界・来世を期待し、信じているすべての人にとっては、故人の永遠の安息を願うことは大変尊いわざです。当然故人への尊敬のしるしとしてていねいに埋葬し、ときどき墓参りに行き、墓地の清掃を行い、あるいはカトリック信者であれば司祭を通して亡くなった故人のためにいろんな祈りを捧げてもらうことは、大変に価の高い行いです。

これは、死後の世界を信じるすべての人にとって共通普遍のものだと思います。さらに、あえてカトリック信者にとって死者のために何かを行うことの意味があるでしょうか。もっと大胆に言えば、仏教徒でなくキリスト教徒にとって、亡くなった方々に祈りを捧げて尊敬を表す意味は何でしょうか。そして、もしもキリスト教徒にとって特別な意味合いがあるとすれば、私たちはそれを理解し、意識して墓に集まってきたのでしょうか。その辺まで、今日は少し踏み込んで考えてみたいと思います。

そこで、今日福音朗読に選ばれた箇所に立ち戻ってみましょう。今日の朗読箇所は、復活の問題についてでした。イエス様が宣教活動をしておられた当時、復活信仰は確かなものではありませんでした。当時の宗教上の権威者たちのなかには、復活はないと主張する人が大勢いましたし、また復活を信じてはいても、誰もそれを証明することも、説明することもできなかったのでした。

そのような中で、あえて復活信仰を問題にしながら落とし穴にはめようとして近づいてきた律法の専門家に、イエス様は堂々と答えてくださいました。今は、言葉を通して復活信仰を説明してくださいますが、のちには私たちのために十字架にかかって、自ら復活してくださり、私たちに復活への希望を届けてくださるのです。

ひとまずイエス様は、当時のおもだった人たちに復活はあると明言なさいます。さらに、復活があっても子孫を残すために何度も結婚を繰り返した場合(兄の跡継ぎを残してあげるために、弟は兄の未亡人と結婚するという習慣「レピラト婚」がありました)はどうなのかと難問をぶつけられても、子孫を残すのはこの世に縛られているあいだだけで、復活したあかつきには皆が兄弟姉妹のようになるのだと反論しました。

難癖を付ける専門家たちの誰も、復活への確信はありませんでしたが、イエス様は復活を完全に理解している方として、またいちばん最初に復活して私たちすべての人間の復活の先駆けとなる方として、確信を持って反論なさったのです。

復活はあるのか。人間は復活します。復活信仰は信じるに価するのか。わたしたちが信じているイエス・キリストがまず復活し、この方が、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と仰ったのです。ですから、イエス・キリストを信じる私たちもまた復活するということは、十分信頼に価するのです。

ここで、投げかけた一つの質問に答えが出ました。仏教徒でなく、キリスト教徒にとって死者に敬意を表すことには、どんな意味があるのですか。キリスト信者は、復活への信仰を持っているから、先祖を大切にするのです。先祖に祈るのは、たたりを恐れてではなく、また霊魂が地上をさまよわないようにということでもなく、ここに埋葬された先祖は、いつか復活してキリストに呼び集められるから、祈っているのです。復活し、最後の審判を経て、永遠の救いに招かれるから祈るのです。

これが、私たちキリスト信者が墓地に集まって祈る理由なのです。仏教信仰を帰依している人も、先祖に手を合わせて祈ります。同じように私たちキリスト信者も手を合わせます。彼らはどんな願いを持っているか、中田神父には分かりません。ですが、カトリック信者が祈る時、この人が神に救われて、最後には復活して永遠の喜びに入れますようにと必ず祈っているのです。言葉はつたないかも知れません。ですが、いっぱしのカトリック信者であれば、永遠の生命を、復活への希望を、故人の上に祈るのです。

最後に、今日の福音朗読を通して示された復活信仰に基づいて、今わたしたちが立っているこの場所をもう一度確かめてみましょう。私たちは祖先の霊と向き合うこの馬込教会共同墓地に立っています。私たちにできて故人にできないことがあります。それは故人の永遠の安息のために手を合わせて祈ることです。復活のその時を待っている先祖のためにミサを捧げることです。

私たちにできることで、故人が切に待ち望んでいることがあります。イエス・キリストが私たちの復活の希望であることを世に証しすることです。説教の初めに話した通り、墓地に集まって交わす会話は大きく二つ、来世を信じない人にとってはまったく希望のない会話、来世の期待と復活信仰を持つ私たちには希望に満ちた会話を墓地に集まってすら話すことができるのです。そして、この信仰を世に証しするよう求められているのです。

できることを通して、世に証を立てましょう。祈りは、復活を待つ故人の元に届きます。食べ物を供えても届きません。どれだけ生前にバナナが好きだった人かも知れませんが、今故人が求めているのは祈りなのです。祈りよりもバナナが欲しい霊魂がいるなら、ここに連れてきて欲しいです。

また、故人を追悼するミサの恵みは届きます。これらの具体的な行いを通して、これからもキリスト信者が故人に祈りを捧げるまことの意味を証ししていくことにいたしましょう。このあとも引き続いて、復活の時を待つ故人の永遠の安息をお祈りしたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(ルカ21:5-19)
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