主日の福音04/10/31
年間第31主日(ルカ19:1-10)
かけがえのない「今日」とするために

土曜日午前中に海に出ました。冷蔵庫にあったはずのイトヨリがいつの間にかいなくなっていたので、いなくなったイトヨリを探しに海へ行ったのです。確か冷蔵庫に保管していたのは錦鯉のように大きなイトヨリでしたが、海で見つけたイトヨリは、少し小振りになっていました。

本当にこのイトヨリだったかなあ、もっと大きかったような気がするがなあと思いつつ、もしかしたら私の勘違いだったかもしれませんので、まあとりあえずそれらのイトヨリを回収して帰ってきました。

一緒に出かけた釣り仲間の方がいましたが、一度教会の境内掃除の時にお会いしていたにもかかわらず、お父さんの名前を教えてくださいと尋ねまして、ちょっとばつが悪かったです。けれども釣りに出かけているにもかかわらず、私がいちばん話しやすい教会のことでいっぱい話しかけてもらって、本当に気持ちよく時間を過ごすことができました。

これが仕事の鬱憤晴らしであったり人がああしたこうしたというような話だと私はきっと居づらかったでしょうが、本当に気さくにいろんなことを尋ねてきてくれて、船の上なのに教会で話をしているような錯覚を覚えました。ちょっとおだて過ぎだったかもしれません。

さて今回は、朗読福音書の中から、「今日」という一点に絞って話してみたいと思います。イエス様はザアカイに、二度「今日」という言葉で話しておられます。この「今日」という言葉は、私たちもふだんから使う言葉なのですが、イエス様が「今日」という言葉を口にすると、それまでとは違った特別な意味合いを帯びてきます。ルカ福音書全体を見渡しながら、まずはそのことを押さえておきましょう。

このルカ福音書で、「今日」という言葉は、大変重要な役割を持っているように思います。三つの箇所を紹介します。一つは、イエス様の宜教活動の開始の場面です。ここでイエス様は「今日」という言葉を使いました。イエス様に会堂でイザヤ書が手渡され、読み終えると次のように仰います。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカ4:21)。

イエス様は聖書の預言が今日実現したと仰るのですが、どんな人間であっても、聖書の預言が今日実現したと断言する力を持っていません。ただ一人、イエス様だけが、「今日実現した」と話す力と権能をお持ちでした。ですから、イエス様が「今日」と仰ったことは、他のどんな人が「今日だけですよ」「今日は特別ですよ」と言うよりも重みがあるのです。

また、イエス様が十字架にかけられたとき、犯罪者の一人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と仰せになりました(ルカ23:43)。誰も、人の救いについて、約束することなんてできません。人についてどころか、人間は自分の救いのことすら自分で保証できないのです。ですがイエス様は、救いについても「今日あなたは楽園にいる」と仰ることができるのです。

そして最後に、ラザロに仰った「今日」が三つ目です。今日この家に、救いが訪れた。今日この人は、アブラハムの子として神に数えられる者となった。イエス様は、人々の前で重大なことを宣言しました。ここでも先の二つと同じように、私たちの誰も、人々の前である人について「この人は神に愛されている人です」と宣言などできないのです。ですが、イエス様にはそれがおできになります。

この三つは、「今日」という言葉が、イエス様にとってどれほど深い意味であるか、「今日」という言葉がイエス様との関わりでどんなに重みのある言葉になるかを説明してくれます。イエス様が「今日」と仰る場合には、全責任を持って何かを実現するために用いたり、神以外には誰にもできない完全な保証を与える言葉として用いたり、人々に重大な宣言を行うときに用いたり、とても大切な意味を持つ特別な言葉となりうるのです。

「今日」という言葉は、イエス様にとつては「昨日と明日に挟まれた単なる一日」ではありません。「今日という今日は」「今日こそは」そんな意味合いです。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。ザアカイは、イエス様と出会って、変えられたのです。イエス様と出会わなければ、昨日も今日もかわらず罪の中にいたのかも知れませんが、彼はイエス様と出会って全く変えられ、「新しくされた」のです。

そこで私たちのことを考えてみましょう。「今日」という一日の中で、私はイエス様とどういった関わりがあるのでしょうか。イエス様は日々、私と今日一日深く関わりたいと願っていると思います。今日私のために力を貸してくれないか、今日私の思いをからし種一つでいいから種まいてくれないか。一人ひとりと、今日限りの大切な絆を結びたいと願っているのだと思います。

イエス様の望みは、すべての人の中で常に叶えられているのでしょうか。必ずしもそうではないと思います。私たちがイエス様の呼びかけを拒むとき、イエス様との特別な絆は結ばれず、今日一日はイエス様と無関係なものになってしまいます。今日一日の中で本当に意味のあることを実現してくださるのはイエス様なのに、私はイエス様と今日一日関わりを持たずに暮らすことがあり得るのです。

今日一日に完全な保証を与えてくれるのもイエス様なのに、そのイエス様と絆を持つことなく、無関係に過ごした。あなたの今日一日の働きは神に喜ばれましたと人々の前で宣言してくださるのもイエス様なのに、私はイエスとの関わりを意識しませんでした。私たちがイエス様と関わりを持って今日一日を過ごそうと考えない限り、毎日は意味もなく流れてしまう危険があるのです。

できれば、今日という一日を、神様とつながりをもって過ごしたいものです。初めに話した釣り仲間は、ちょうど時間が取れて一つの船の中で話をしながら過ごしたのですが、もしかしたら私がいたおかげで、ふだんは話すこともない教会のことや、子供の信仰のことや、今の教会に期待することなど、いろいろ話ができたのではないかと思います。もちろん、私に感謝しなさいと押しつけるつもりはありません。

別のメンバーで釣りに出かけていれば、こうした話も全然出てこなかったかもしれない。何かがきっかけになって、今日の数時間を信仰につながるような話をしたのですから、十分神様とつながりをもって過ごした一日だったのではないでしょうか。

釣りに行けば釣ることが第一の目標に違いありません。仕事をしているときは仕事をこなすことが第一の目標です。それは当然です。ですが、仕事の中にも自分は神様に助けてもらっているという意識があれば、この人には安心して仕事が任せられる、もしかしたら信者だからじゃないだろうかと思わせることもあるのではないでしょうか。もしそうだとすれば、それこそが最高の働きではないでしょうか。

今日私のために働いてくれないか。今日私のことを心にとめて、私に信頼を置いて一日を過ごしてくれないか。イエス様は日々、このような呼びかけをしながら、あなたとかけがえのない「今日」を結ぼうとしておられるのだと思います。

働く人、健康に恵まれている人ばかりではありません。病気で寝たきりの人であっても、イエス様を胸に抱いて一日を過ごすとき、今日はかけがえのない一日になります。神様を無視してがむしゃらに突き進んだ人の一日よりも、神様に信頼を寄せて、病を一日になった人の方が、神様の前では価が高いと、私は思うのです。神様との関わりの中で、かけがえのない今日を過ごしたからです。

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」「今日、救いがこの家を訪れた。」イエス様とのつながりを毎日欠かさず保って生きるキリスト信者でありたいと思います。その決意を、今日のミサの中で新たにすることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
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(ルカ20:27-38)
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