主日の福音04/10/24
年間第30主日(ルカ18:9-14)
謙虚に、私の不足を祭壇にそなえましょう

三週間ほど前の木曜日のことです。この日は大明寺教会で朝ミサをするのですが、転勤してきて初めて、完全に寝坊して遅刻しました。たいていわたしの目覚ましは5時頃になるようにセットしているのですが、木曜日のミサは6時半ですから、少し遅らせて鳴らすんです。例えば、5時半とかです。

その前日、水曜日は目覚ましの時間をいじりませんでした。当然、目覚ましが5時になりまして、不機嫌な言葉を時計に言い始めます。「やめてくれよもう・・・。今日は木曜日ぞ。あと30分余計に寝らるっとに」。そういって、布団をかぶり直しました。今考えるとあきらめてベッドから出るべきだったのです。

そうして次の瞬間、暖かい布団の中で急に二度寝したことに気付きました。「あちゃ!」布団をはがすと、外はもう明るくなっています。おそるおそる目覚ましに目をやると、何と6時35分を差しているではありませんか。飛び起きまして、準備をしましたがもう慌てても間に合いません。結局教会に着いたのは6時50分で、大明寺の人たちはロザリオを繰りながら首を長〜くして待っていたのでした。

ミサはいつも通りにしてきましたが、その日は信者さんの顔をまともに見ることはできませんでした。なかには何かその日の予定を立てていた人もいたでしょうに、わたしの遅刻から始まって、予定が少しずつずれていったに違いありません。ミサが終わってからも肩を落として、皆さんスミマセンねぇと謝ったところ、信者の皆さんの言葉に救われました。「神父様若いっていいわねぇ。私たちは一回目が覚めたら、あとは寝られんとですよ」。慰めとも忠告とも取れるような言葉でしたが、これからはもっと気を付けたいと思います。

ただ、人間はのど元を過ぎると熱さを忘れる弱い存在です。以前赴任していた教会では、冬場は毎年何回かは寝坊していたのです。それでも懲りないというか、例えば自分の知っている誰それ神父さんは、寝坊なんてもんじゃなくて、自分では絶対起きられなかったらしいとか、そんな話を集めて自分を慰めたりするのです。

皆さん人ごとだと思って聞いているかも知れませんが、多かれ少なかれそのような経験はあるのではないかと思います。自分の欠点や過ちをもっと大きな過ちと比べることで、あー自分も失敗するけれど、あの人よりはまだましだと思う。そういうことをいくらか考えてしまうのではないでしょうか。今日の福音に照らして考えると、それはまさに他人を見下すことの始まりなのだと思います。

「いえ神父様、私は他人を見下したりはしません」。そう、仰るかも知れません。ですが、あの人よりはいくらかましという言葉をうっかり言ってしまうとすれば、やはり私は、自分よりも低い人を準備して、自分はどん底ではないとへんな安心を持っているのです。イエス様は、他人を見下す小さなきっかけにも注意するようにと、今日のたとえを私たちに投げかけているのではないでしょうか。

「あの人よりはまし」という言い方は、自分の正しさを納得するのにとても都合のいい言葉です。もちろん、私の目から見れば、ある人よりはましと思うかも知れません。けれども、私はもうそこで、誰かを自分より低いものと決めてしまっているのです。そしてこういう考えから人間はなかなか抜け出すことができず、自分が考えていたあの人よりも自分自身がひどい生活をし始めると、もっとひどいと思われる人をさがして、その人よりは・・・と言い続けるのです。

人間が正しいとされるのは、そういう物差しなのでしょうか。むしろ、人を義としたり、退けたりするのは、神様の物差しにかなうかどうかなのではないでしょうか。イエス様はたとえの結びで次のように言います。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」(18:14)。

徴税人は人間の物差しでは人に嫌われ、見下される生き方なのですが、神はこの徴税人の中に、神の前にふさわしいと認められる何かを見つけたのです。ですが自分の正しさや確かに誰にも真似のできない善行をひけらかすファリサイ派の人の心には、義と認めるに値するものを何も見つけることができなかったのです。神様の物差しからは、徴税人に備わっていた何かが、自分の努力を誇らしげに並べ立てるファリサイ派の人には欠けていたのだと思います。ここに、私たちも注意を向ける必要があります。

何が、徴税人には備わっていて、ファリサイ派の人には欠けていたのでしょうか。それは、「人間とは何かが欠けている者なのだ」という謙虚さではないかなあと思います。人間であるからには必ず何かが足りない、欠けているのだという気持ちがファリサイ派の人にはそれこそ欠けていたので、神様から退けられたのではないでしょうか。

それはたとえて言えばこういうことです。車を運転する人は定期的にガソリンスタンドに行きます。ガソリンは必ず減っていくもので、それを満たさなければ車は走らないことを誰もが知っているからです。ところがそこに、いつもガソリンを満タンにしている人がやってきて、私の車はガソリンがいつも満タンだよとガソリンスタンドに来て言っているようなものだと思います。ガソリンスタンドで働く人は、ガソリンを入れるわけでもないその人を見て、なんと言うでしょうか。

私だったら、忙しくてあなたのような人の相手をしている暇はないから、とっとと帰れと言うでしょう。もちろん皆さんは、もっとやんわり言うと思いますが、実際ガソリンスタンドに来て、ガソリンがいつもいっぱいに入っていると言いにこられても、それがどうした、迷惑だから帰れということにならないでしょうか。

むしろ、「私は車のことよく知らないから、いろいろ教えてくれるかなあ」と正直に尋ねる人の方が、ガソリンスタンドで働いている人にとっては嬉しいお客に違いありません。車を毎日扱っている人に自分の車の講釈をする人よりも、自分の日頃の運転でどんなことに気をつけたほうがいいだろうか、何が自分の運転には足りないのだろうかと聞いてくる人のほうが、どれだけ店員さんにとっては気持ちがよいでしょうか。

神は、あなたが欠けていることを正直に話してくれるのをいつも待っているのだと思います。私は、こんなところが足りないのです。どうしたらいいのでしょうか。私は、こんな過ちに陥りやすいのです。こんな誘惑にしばしば負けてしまうのです。こんな私でも、あなたは憐れんでくださるでしょうか。そう祈る人を、神様は心配しないでよろしい。私が手をさしのべましょう。私に寄りすがるあなたに、すぐに力を貸しましょうと答えてくださるのだと思います。神は、自分はどこにも整備不良がなくて、欠点も不足もありませんと報告に来るような人には、ああそうですかと、退けるのです。

私はどうでしょうか。神様に心をあげるひとときが、それぞれあると思います。年に一回の人もいるかもしれません、日曜日ごとという人もいるでしょう。また、毎日祈りをするので、一日に一回は神に心を打ち明けるという人もいると思います。そうしたふり返りのひとときの中で、もしかしたらファリサイ派の人のような態度で神に祈って、自分だけ満足していることがないか、よくよく考えてみる必要があります。

たとえば、「自分はなんて悪かこともせんやったし、人に迷惑もかけんやったけん、神様に特別報告することはなか・・・」こんな祈りで終わっていないでしょうか。もしもそうであれば、神様のお世話になる必要はないと言っているのですから、ガソリンスタンドでガソリンは満タンです、ガソリンを入れる必要はありませんと言いに来ている人と何ら変わらないのではないでしょうか。

何か、より頼む事柄があるのではないでしょうか。そろそろ教会のために何かをしなければいけないのではないかと声をかけられた。「いやあ、おれはまだよか、年ば取ってから教会に行くけん」協力者を求めている。「おれよりもっと相応しか人のいっぱいおるたい。あの人もあの人も・・・」たぶんこういうちょっとしたことは、よくよくふり返ればたくさん見つかるのではないでしょうか。

言い逃れしようとしたり、誰かに(それは配偶者にとか)押しつけようとしたり、見て見ぬふりをしたり。こうして私たちは、小さな不足や欠点が積み重なっているのだと思います。謙虚にそのことを受け止め、神よ、罪人の私を憐れんでくださいと祈るのです。神は、より頼む人を決して拒みません。罪人がより頼むことをむしろ喜びとするのです。私の欠点を覆ってくださいと近づくことを待っているのです。

最後に、私もつい最近「あの人よりはまし」と思ってしまったことを告白しておきます。またもや、木曜日の朝ミサの時のことです。その日は前日に事情があって夜更かしをしてしまい、2時間しか睡眠を取っていませんでした。ふらふらの状態でミサを捧げたのですが、聖なるかな聖なるかな(感謝の讃歌)の直前に「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」といったやりとりがありますが、あのとき私はうっかり「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と言いかけたんです。ミサの終わりに言う言葉が、何の気なしに口をついて出たんです。

実際には、「全能のか・・・」ぐらいではっと気がついたのですが、あるお母さんはそれに気づいてもうくすくす笑っていました。そこまでなら良かったのですが、私はあのとき、「先輩の中には『ミサ聖祭を終わります。行きましょう。主の平和のうちに』と言って、香部屋に帰ってしまった神父様がいるから、あの神父様よりはましだろう」と、うっかり心の中で考えてしまったのです。これは完全に人を見下す態度でした。

こんな過ちを犯しながらも、「神様赦してください」と願う人を神は受け入れて、よしとしてくださるのです。私たちも信頼を失わず、憐れみを求めて祭壇に近づきましょう。「神様、私はうっかりあの神父様よりはましやろうと思ってしまいました。罪人の私を憐れんでください。」
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
‥‥‥†‥‥‥‥