主日の福音04/10/17
年間第29主日(ルカ18:1-8)
神は速やかに答えてくださいます

ずいぶん昔、25年も前の話になりますが、私が長崎の神学校に入って間もなくのことです。ある時私ともう一人同級生が、神学校の校則違反で三階建ての神学校の屋根裏に正座させられたことがありました。中学一年生のときの話です。

正座させられた理由はちょっと言えませんが(メルマガ読者の皆様、イカ釣りです)、相方が主犯で、一緒に見つかった私は共犯ということで正座させられたのでした。何だか胡散臭そうな目で見ていますが、本当ですって。

あの当時は何かちょっとでも校則を破れば、上級生から正座させられるのは日常茶飯事だったのですが、正座させた上級生が私たち二人にこう言いました。「最初にしようと言い出したのはどっちだ。正直に言えば許してやる」。相方が自分ですと言えばそれでことは済んだのですが、こいつがなかなか白状しないわけです。

「そのまま反省してろ。また様子を見に来るからな」と言って先輩はその場を去りました。私はもう一人に、お前何で言わないんだよと言いましたら、「だって怖かったんだもん」と言います。確かに当時は一つ上の先輩でも怖かった時代ですから、無理もありません。かと言って、こいつですと私が言うのもかわいそうで、先輩が許してくれるのを辛抱して待っておりました。

先輩はおそらく30分おきに、様子を見に来ていたと思います。時計も持っていないので確かなことは分かりませんが、どちらにしても正座してないところを見られでもしたらもっと罰が重くなるのは目に見えていますから、辛抱して先輩が許してくれるのを待っていたのでした。

ところが悪い先輩に当たったもので、1時間座っても1時間半座っても許してくれないのです。「正直に私がしましたと言わなければいつまでも座らせるぞ」と言って、そのあとは様子を見にも来なくなりました。夕方から始まった正座は3時間を過ぎ、とっくに暗くなってもうダメかと諦めていたところに、先輩がやってきました。

「もう3時間も過ぎたのに何で相手をかばうのか。悪いことをしたくせに。悪いことをかばっても何にもならんぞ。正直に言え」。だんだんこちらも変な意地が出てきまして、誰が言うものかと、もうガマン比べです。先輩はその場に居続けて、最後にこう言いました。「呆れた。もう消灯時間になるけん許してやる。共同寝室に帰れ」やっと許された二人でしたが、帰れと言われても帰れません。足がしびれて動けないのです。

あきれ果てた先輩は、もう一人先輩を連れてきて、私たちを共同寝室に連れて行ってくれました。解放されたことと、緊張がいっぺんに解けたことが重なって、私はボロボロ涙を流してしまいました。

ここまででしたらハッピーエンドに近いのですが、じつはこの後がありまして、先の事件をきっかけにこれからまじめに一生懸命やろうと、同級生とは固く誓ったのですが、その同級生は何と中学も卒業せずに神学校を去っていきました。あの時私たちを正座させて最後は泣いている私を負ぶってくださった先輩も、四・五年後に消えて亡くなりまして、せっかくの感動的な話の証言者は私一人しか生き残りませんでした。連中が生き残って司祭になっていれば、こうして励まし合い、鍛え合ったおかげで、皆司祭になりましたと、もっと素晴らしい話になったのですが、人生というものはどうなるか分かりません。

さて今日の福音ですが、気を落とさずにたえず祈りなさいということがたとえを通して語られています。どんなに難しい立場に立たされても、神はきっと助けてくださることを、不正な裁判官と裁きを求めている一人のやもめで表しています。男性社会で女性が差別されていた時代に暮らす未亡人は、自分の身を守るすべがほとんど何もありませんでした。そんな中で裁判官は、少なくとも正邪を裁いてくれる数少ないよすがだったのです。

ただ、当時の裁判は、小さなもめごとはその土地に住む有力者などが裁判官の役を引き受けてこなしていたようですから、今で言う民事裁判は、土地の有力者に取り入ったほうが有利な判決を取り付けることもあったのだと思います。「神を畏れず、人を人とも思わない」とは、賄賂をもらえば裁判もねじ曲げるようなにわか裁判官という意味だったのかも知れません。

当然、やもめには裁判を有利に持っていくようなお金も力もありませんでした。彼女は裁判官の良識に訴えます。「あなたは裁判官です。きっと正しく裁いて下さるはずです」。「うるさくてかなわない」「ひっきりなしにやって来る」「さんざんな目に遭わされる」こうした裁判官のぼやきからは、どれだけやもめが必死に裁判官の良識を動かそうと出向いてきたかがよく分かります。この点が、私たちの今週一週間を振り返るポイントなのではないかなあと思います。

始めに紹介した私の思い出話、私は二つの理由で意地からでも口を割りませんでした。一つは、先輩が根負けして許してくれないかなあということ、もう一つは、同級生が考え直して「僕が誘いました」と言ってくれないかなあということです。私が話すのは簡単ですが、そうすれば友達関係にひびが入るかも知れません。それよりは、どんなに時間がかかっても、どんなに辛くても、相手の心を変える方を選んだのだと思います。もちろん、そこまで高尚なことを、中学一年生のときに思ったかどうか、自信はありませんが。

イエス様はたとえの説明でこんなことを仰っています。「まして神は、昼も夜も叫び求めている(選ばれた)人たちのために裁きを行わずに、(彼らをいつまでも)ほおっておかれることがあろうか」。私たちが何かを願う時、昼も夜も、気を落とさずにたえず祈るなら、神は必ず私たちに答えてくださるのではないでしょうか。

「もういい、許してやる」と言ってもらうまで、私は3時間正座させられました。そういう一面に目を留めて下さって私を司祭として拾ってくださるまで、十四年かかりました。たえず願い求める、気を落とさずに祈り続けるなら、私たちの願いは必ず、かなえて頂けるのではないでしょうか。

私たちがかなえてもらいたいことは、いろいろだと思います。何かを与えて欲しい、何かを変えて欲しい、失った何かを取り戻したいなど、さまざまな願いがあるのだと思います。そのどれもが、弱い私たちの力だけではかなえることができません。

知恵と勇気を与えて下さい。ある人はすぐにそうならないので諦めてしまいます。ただでさえ、知恵と勇気は一朝一夕には与えられないのに、目に見えて結果が現れないと、諦めそうになるのです。

人間関係を良いほうに変えて下さい。誰もがそう願いますが、もともと人間関係は大変複雑に絡んだもので、一つずつ解決の糸口を見つけなければならないものです。いちどに変わるはずもないのに、神様は私の願いを聞いてくれないと、願いはしましたが諦めてしまうことがあります。

私は健康を損ねてしまいました。ベッドに付くようになれば、当然自分で何でもしていた頃が忘れられず、すぐに飛び起きることのできる体を願うかも知れませんが、神様は私が何を願っているかを十分ご存知です。そして、病に悩むあなたにも、必ず答えてくださるのです。

例えば、大きな病を得て気を病んでいる人がいるとします。その人は当然病気の回復を切に願うのですが、昼も夜も願い求める中で、じつは神様はいろんなことを気付かせて下さって、祈るそばから、確実に答えてくださっているのではないでしょうか。

それはこういうことです。病気になると、多くの場合は心も体も弱ってしまいます。心は健康そのもので、体だけ痛んでいる人はまずいません。もしもそんな人がいれば、おそらくその病人はあまり病気のことを気に病んだりはしないのではないでしょうか。心も弱ってしまう時、昼も夜も祈る私に、神様は答えてくださいます。「私は、あなたが失望してしまわないように、諦めてしまわないように、たえず側にいます」と。

体が治ることはずっと先のことかも知れません。もしかしたらこの世では体の健康は取り戻せないかも知れません。ですが神様は、そんな体でも希望を持って生きていけるように、先に心の健康のために答えをくださるのです。私が昼も夜も願い求めることに、神は速やかに答えをくださる、私はあなたから離れたりはしないよと、あなたがあなたらしさを取り戻すようにしてあげるよ」と、すぐに答えを返しておられるのではないでしょうか。

すぐに悪く考えてしまうことがあります。起こった出来事からすぐに諦めて先走った思いに駆られることがあります。ですがイエス様は、気を落としてはいけないと、今日励ましておられるのです。

イエス様の言葉を文字通りに信じ続けましょう。「彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」それとも、イエス様のことばに何か不足でもあるのでしょうか。神はいつまでも私をほうっておかれませんと、深い信頼をもって今週一週間を迎えることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(ルカ18:9-14)
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